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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ノートン チャレンジP86

エンジンは、水冷並列2気筒DOHC4バルブ、ボア×ストロークはDFVと同じ85.7×64.8mmで、排気量は747.58㏄※。バルブ挟角は32度でこれもDFVと同じ、と正に1/4DFVです。

※ボア×ストロークについて、出典によって小数点以下第2位まで書かれたものがありますが、1977年MFJ規則書に掲載されたF750公認車両一覧では747.58㏄となっているので、このボア×ストロークとしました。


 現存するマシンの写真。
The Norton Challenge P86 | Cosworth 746cc Twin | MCNews


 エンジンが前後に長い印象を受けます。これは360度クランクを採用したことによりエンジン前後に2本のバランサーシャフトを配置したためです。

 これは Norton 750 Monocoque/Spaceframe/Cosworth にある図に加筆したもの。


 クランクシャフトは前バランサーシャフトをギアで回します。前バランサーシャフトの右端からHy-Voチェーンでクラッチを駆動します(図には書かれていません)。そしてクラッチ→(同軸上の)変速機メインシャフト→変速機カウンターシャフトへ繋がります。ですからクランクシャフトは前方回転です。

 クランクシャフトはカムシャフトにギアで繋がるシャフトをベルトで駆動しますが、同時に後バランサーシャフトを回します。

 当時、このエンジンと同じ

〇360度クランク並列2気筒
〇クランクシャフト前後にバランサーシャフト
〇クラッチはチェーン駆動


のエンジンのバイクが国産車にありました。カワサキ400RS(1974)、カワサキZ750T(1976)です。

 ただし、P86と異なり、
〇クラッチに繋がるのはクランクシャフト
〇クランクシャフトは後方回転
〇バランサーシャフト駆動はチェーン
〇カムシャフト駆動はチェーン

です。

 次に400RSとP86の一次慣性力等の釣合いについて考えます。


 下は400RSのエンジン写真(モーターサイクリスト1974-9)に加筆したものです。

 これはアッパークランクケースを下右から見たもので、白矢印は各シャフトの回転方向、黄矢印はピストンが上死点にある時の一次慣性力とクランクバランスウエイト遠心力の合力※、赤矢印はバランサーシャフトのバランスウェイトの遠心力で、一次慣性力がバランサーシャフト等により相殺されています。

※バランスウエイトは一次慣性力を50%打ち消すものとした。


 クランクシャフトが90度回転すると下図になります。

 一次慣性力はゼロですが、クランクシャフトのバランスウエイトにより前方向に0.5×一次慣性力と同じ大きさの遠心力が働きます。この遠心力もバランサーシャフトによって打ち消されます。

 ところがP86では400RSと異なり、上の図で分るように2軸のバランサーシャフトの回転方向が互いに逆です。

(続く)


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ノートン チャレンジP86

は1970年代半ばにノートンが開発した750㏄水冷並列2気筒レーサーで、そのエンジン設計のベースになったのはフォード・コスワースDFV(3リッターV型8気筒・F1エンジン)です。

 ノートンは1973年にコマンド750の改良型、コマンド850(並列2気筒)を登場させますが、時代遅れの設計のマシンに未来はありませんでした。OHV、別体4速変速機という誰でも分る古さだけでなく、エンジン内部の設計も古臭いマシンだったのです。

 そこで、起死回生の一手として、ノートンはフォード・コスワースDFVを1/4にした750㏄2気筒DOHC4バルブエンジンを搭載した新型マシンの開発を目論みました。

 DFVの出力を460HPとすると、その1/4は115HPになります。計画では一般市販車は65-75HP程度、F750レーサーは100HP以上を目標としていました。エンジンの開発を請け負ったのは、もちろんコスワースです。

 しかし、ノートンの経営が危機的な状況であったこと、開発が順調に進まなかったことから、レーサーの完成車4台、エンジン30基程度が製作されるに留まり、出場したレースも少なく、まともな走りを披露することもありませんでした。

 1980年代に、排気量を拡大し新たな車体を与えられたマシンがバトルオブツインで活躍しますが、これは別の物語。

(続く)

参考

OddBike: Norton P86 750 Challenge - Norton's Last Gasp

Cosworth-Norton.pdf

1975年のF750新型車

 1975年に向け、F750のベースとなるマシンの由来が一般市販車に限られないことが明確になるとともに、その最小生産台数が25台となったことにより、ヤマハ以外の新型車の登場が期待されることになった。

 それに応えたのがカワサキ。1974年までは一般市販車H2(750SS)のエンジンをベースにしたエンジンのH2R(2ストローク750㏄空冷並列3気筒ピストンバルブ)を走らせていたが、ボア×ストロークを71×63mmから68×68.6mmに改め水冷化したようなKR750を25台製作し、1975年デイトナから走らせたのである。

 スズキは、1975年は一般市販車GT750のエンジンをベースにしたエンジンのTR750(XR11、水冷並列3気筒ピストンバルブ)の改良型を走らせ、1976年に向け新型のXR20(RF750またはTR750R、水冷並列3気筒ピストンバルブ)を開発していたが、発表もされずに終わった。
 当時、4ストローク一般市販二輪車を持たなかったスズキは、4ストローク一般市販二輪車の開発、量産化、市販、整備体制整備を進める必要があった。また、4輪でも2ストロークエンジンでの排ガス対策も進めていたが、1975年には排ガス対策に対応できないことが明らかになっており、4ストローク化を進める必要があった。
 世界GP500㏄クラスですら1976年はイギリス輸入元のチームとしての参戦にならざるを得なかった当時の状況では、F750のための新型マシンを開発し、25台生産し、レース活動を行う余裕がスズキに無くなっていたことがXR20のお蔵入りの要因と思われる。
XR20 SUZUKI

 そして、新F750規定の恩恵を最も受けるはずだったのは、ノートン・チャレンジP86(4ストローク750㏄水冷並列2気筒)だろう。
(続く)

キャンギャル

(3) 筋トレ100%マン on X: "オートサロンで車のタイヤやホイールを撮影したら、 「女性を下から撮影するのはやめて」とスタッフから苦情言われた人がいた。 車を展示するショー見に行って車撮っただけで、勝手に立たせてる女性を盗撮したとか難癖付けられ盗撮犯かのような冤罪に巻き込まれる可能性あるとか、新手の美人局かよ。" / X



 日本GPが鈴鹿で行われていた頃、ピットウォークの時にマシンの前に立つキャンギャルが邪魔でしたね。肝心のマシンが見えないし、ハイレグだったりすると、撮影時にマシンではなくキャンギャルの股間を撮影していると疑われそうでしたし。


 邪魔は邪魔ですが、まだましなキャンギャルの立ち位置。主役は1998年日本GPでのホンダNSR500F-M807。



 マルボロやラッキーストライクのキャンギャルはパンツスタイルだったのはさすがだと思いました。キャンギャルが注目を集めてもスポンサーに注目が集まるわけではないですし、たとえ注目されても、スポンサーの商品に上質なイメージが植えつけられるわけではないです。

ヤマハTZ750とF750規定(2)

  TZ750がフォーミュラ750(F750)に適合しないというFIMの決定に対して、AMA(アメリカ)は次の様な見解を示した。

 「F750とは最小限200台の生産・販売の条件を充たせばよいと解釈するメーカー及びスポーツ団体があっても当然であり、AMAもそのように解釈している。TZ750が不適合ならAMAが認可したダートトラックレーサーをベースにしたハーレー・ダビッドソンXR750も同じ理由で不適格になる。TZ750は1973年11月にMFJ(日本)が認可し、技術データを添えてFIM全メンバーに通知されたはずであり、これまでどこからも異議は申し立てられなかった。FIMはTZ750不適格によりデイトナ200に結果の取り消しの可能性もあるとほのめかしたが、AMAは今後のレースを国際フォーミュラの枠から外して開催することになるだろう。~今回のFIMの決定はF750レースの発展に大きなブレーキをかけることは間違いないだろう。」( オートバイ1974-6)

 そもそもF750は、当時のアメリカで行われる見込みのなかった世界GPとは異なる新たな地位をF750に与えるべく、アメリカの750㏄レースの規定とイギリス等で行われていた750㏄レースの規定をすり合わせしたものであり、AMAはFIMに面子を潰されたのだ。
 

 FIMの決定に反発したのはAMAだけでなかった。1974年のF750選手権はオンタリオ(アメリカ)を含む7レース行われるはずだったが、イモラ(イタリア)等の3レース(オンタリオを加え4レース)もF750の冠を外すことを選択、F750はスペイン、フィンランド、イギリスでの3レースしか行われなかった。しかも、ヤマハTZ350のジョン・ドッズがチャンピオン、同じくTZ350のパトリック・ポンスがランキング2位という750㏄選手権とは思えない結果に終わった。FIMの決定はF750終了の危機を招いたのである。


 このため、1975年シーズンに向けFIMは、F750は一般市販車ベースでなくとも可とし、さらに最小生産台数を200台から25台とする規定改定を行い、ヤマハ以外の新型レーサーの登場を促すことになった。このようなことを朝令暮改というのだろう。


 この事件について「ヤマハが本来、F750に出場できないTZ750を無理やり認定させようとした 」という意見もあるが、1973年のF750の状況を知らない、そしてTZ750登場によりヨーロッパ車の活躍の場がますます失われることを快く思わない者の意見としか思えない。



参考文献:Yamaha Racing Motorcycles: All Factory and Production Road-Racing Two-Strokes from 1955 to 1993 by Colin MacKellar, Crowood Press 1995。

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