忍者ブログ

JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ヤマハ0W60の車重

http://jfrmc.ganriki.net/ow54/ow54-2.html
中、ヤマハ0W54の車重についての記述ですが、RACERS Vol02を引用し、0W60の車重を「0W54から10㎏近くダウン」としていました。

 しかし、以下のヤマハのサイトで「約6㎏」とありましたので、関連する記述を修正しました。

https://global.yamaha-motor.com/jp/
race/wgp-50th/race_archive/machines/
yzr500_0w60/
 (2011年公開)

https://global.yamaha-motor.com/jp/
showroom/cp/exhibition/archives/2003_3/
pdf/yzr500_brochure-j.pdf
 (2003年公開)
PR

スズキ 青谷テストコース

2015年にブログで取り上げましたが、年内着工が発表されました。1964年に竣工した竜洋テストコースは「予備的に使う可能性もある」とのことです。

https://www.at-s.com/news/article/economy/shizuoka/800170.html

こちらの資料中の図からすると最長直線距離は1km程度でしょう。







検査数の増大

こんなことが起きていないことを祈ります。

〇職員を休みなしに働かせる→ミスの増大(誰も検証できない)
〇必要な操作の省略
〇検証が不十分な検査方法の採用
〇検証が不十分な試薬の使用
〇精度はどうでもいいから検体数を稼げと命令する上司


 測定がどんなものなのか分らない人にとってはどうでもいいことですね。

1980年のケニー・ロバーツ(ヤマハ)はどこと契約した?(2)

この記事は
http://jfrmc.tou3.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/1980%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AF

に加筆したものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・

 ケニー・ロバーツが500CC世界GPに参戦した6年間のうち、1978-80は、黄色主体のいわゆるインターカラーで、1981-82がヤマハ・ファクトリーカラーというべき白地に赤ストライプ、1983年がマルボロカラーでした。
 
 このことから、雑誌等では「ロバーツは1978-80年はヤマハのアメリカ現地法人Y.M.U.Sとの契約、1981-82年はヤマハ本社契約」と書かれた記事をよく見かけます。ヤマハのウェブサイトでも、1981年について「K・ロバーツが本社契約ライダーとして参戦し~」と1981年から本社契約となったかのように書かれています。
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/season1980_89/1981/


 ライダースクラブ誌(枻出版)1980-4に次の記述があります。

 (シーズン前に公開された1980年型YZR500について)「マシンは今のところファクトリーの純正カラーに塗られているが、今シーズン本社契約で走るのはロバーツひとりであり~昨シーズンまでと同じようにUSヤマハカラー(略)となれば、伝統のこのカラーリングはGPで見られなくなってしまうのだろうか」
 
 さて、ケル・カラザースは24年前に次のように語っています。https://web.archive.org/web/20101221015640/http://superbikeplanet.com/2002-Sep/kelcarruthers1996.htm

”(注 1978年について)It was all financed by America (Yamaha). They paid me, they paid Kenny. They got me a budget to run the race team. Of course Kenny won the championship and the next year he won it again and then the factory more or less decided that they'd give up the factory team and let me run the factory team. So I ran the factory team and was contracted to Japan and basically I had Kenny as a rider and we had mechanics and one engineer from Japan.”

 簡単にまとめると「1978、79はヤマハ(アメリカ)が資金を出し、1978、79とタイトルを手にしたが、1980年、ヤマハ(日本)はファクトリーチームの自社運営を諦め、ヤマハ(日本)はカラザースにファクトリーチームの運営を委託した」のです。

 つまり、ライダー(ロバーツ)はヤマハ(日本)の契約で、チームはヤマハ(日本)と契約したカラザースチームだったのです。これが、ロバーツがY.M.U.Sの契約でないにも関わらず1980年のロバーツのマシンのカラーリングがインターカラーのままだった理由です。


 マシンのカラーリングだけでライダーの契約関係を判断することはできないのです。

札幌ボール祭

 今日、広島ー巨人のBS中継放送を見ていたのですが、解説者の槇原氏(元巨人)が、巨人の投手がフォアボールを多く与えていることについて、「昔、私の現役時代の前に札幌球場で、巨人の投手がたくさんのフォアボールを広島に与えたことがあった」というようなことを話してました。
 
 以下、私の記憶を書きます。ですから正確さはありません。
〇1978年、札幌円山球場のこと。何月かは覚えていません。
〇巨人の選手が1イニング10四球という「記録」を作った。関わった投手は3人。
〇試合はデーゲームで、日本テレビで19:30~21時前まで、録画放送された。日本テレビはよく放送中止にしなかったものと感心した記憶。
〇「札幌ボール祭」は翌日のスポーツ紙の見出し。今日、試合を見ながら、「こんなことがあったなあ」と妻に言うと、妻もこの見出しを覚えていました。

 なお、この年はヤクルトがセリーグ終盤に巨人を逆転し初優勝した年で、阪神は最下位(阪神にとって初めてという記憶)でした。

カレンダー

12 2025/01 02
S M T W T F S
3 4
6 10
12 14 15 16 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

リンク

カテゴリー

フリーエリア

最新CM

[01/19 野田]
[01/18 Kuboi]
[01/16 野田]
[01/16 野田]
[01/14 Kuboi]
[01/13 野田]
[01/13 Kuboi]
[01/13 野田]
[01/13 Kuboi]
[01/13 野田]

最新記事

最新TB

プロフィール

HN:
野田健一
性別:
男性

バーコード

RSS

ブログ内検索

アーカイブ

最古記事

P R

カウンター

アクセス解析