レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
誤った歴史 (ganriki.net)
の末尾に以下の文を追記しました。クーパーからホンダへの出荷が1961年12月ということと符合します。
2024.6.16追記
「語り継ぎたいこと-チャレンジの50年」(本田技研工業1999)274頁)によれば、クーパークライマックス1.5ℓを入手したのは1962年5月の半年ほど前とのこと。
この本は中沖満氏(故人)が「スポークホイール」(エヌ・エス出版)に連載していた記事を出版社がまとめ、それに出版社が写真、解説文を追加したものです。
という訳で、中沖氏の記事の誤り、勘違いもそのままですし、解説も誤りがありますので、私が某記事で書いた「昔も今も誰かが間違えれば皆間違えるし、さらに間違いを増幅していく」の典型本になっています。
例えば
143頁
「(1959年、マン島TTレース初出場前)ホンダはノートン・マンクスで~マン島TTを連続制覇した名手、ジェフ・デュークを丁重に招いて試乗してもらう」
とあります。デュークの来日は(1959年ではなく)1960年、モーターサイクル出版社(現・八重洲出版)の招きによるもので、デュークは各社を訪問しました。これは1960年4月にスズキを訪問し、1960年マン島TT出場予定マシンに跨っているところ(試乗もした)。デュークの後ろの皮つなぎ姿は伊藤光夫。
1960-TTレ-ス初出場 本文 (iom1960.com)
これはホンダの荒川テストコースを訪問した時のもので、1960年型250㏄(RC161)が写っている。
th_fH_09-HSC.jpg (1200×799) (mc-web.jp)
中沖氏の大元の記事はグランプリ・イラストレイテッド1987-10だと思われます。ホンダの社員ライダーで1960年にマン島TTレース等に出場した島崎貞夫氏(故人)へのインタビューをもとにしたもので、次のように書かれています(A~Cは私が分割したもの)
A マン島用の125㏄が完成したとき、ホンダはジェフ・デュークを丁重に荒川に招き、試乗とアドバイスを求め、それに対しデュークは、「まァいいだろう」と答えた
B 僅か1,500mの直線を朝から晩まで走ることで、マシーンとライダーを鍛え、それだけでマン島に行く、という無謀さに充分な社交辞令をもって答えながら(Cに続く)
C デュークは『1冊の教科書』を渡した。(島崎氏)「これがそうです。私の20代の宝物のひとつです」(日本語に訳したもの)
A、Bは1959年TTレース出場の前のように読めますが、Cは1960年TTレース出場前です。1959年のマン島TT125㏄はマウンテンコースでなくクリプスコースでしたし、島崎氏は1960年が初参戦なのですから、1960年出場前でないとマウンテンコースのガイドブックを読む意味がありません。
Cがなぜか中沖氏には1959年出場前のことになってしまい、A、Bを作文したのではないかと思われます。
また、私が マン島クリプスコース (ganriki.net) で書いた、イギリス人ジャーナリストによる「1959年、ホンダはマン島に行って初めてクリプスコースが用いられることを知った。デュークのマウンテンコースのガイド本で勉強していたのに」も、大元は中沖氏の記事の可能性があると思います。
馬力の種類 (ganriki.net)
を公開しました。すでにブログに書いていた内容を整理して加筆したものです。
私が仏馬力(メートル法)と異なる英馬力(ヤードポンド法)のことを知ったのはかなり前です。少なくとも1981年頃には知っていた記憶です。
この本
エンジンの話 (1981年) (岩波新書) |本 | 通販 | Amazon
に書いてありましたから。それより前に英馬力のことを知っていたような気もしますが、よく覚えていません。1980年以前、世界GPで活躍するイギリス、アメリカのレーシングマシンは少数派でしたから、意識する必要もなかったからでしょうか。
今回、昔の計量法の規定を調べたのは、
馬力 - Wikipedia
の次の文を知ったからです。
「日本の旧計量法では、1馬力は英馬力とも仏馬力とも違い、仏馬力をベースに重力加速度を(正確に)10 m/s2として計算した750ワットとしていた。これを日本馬力と呼んでいたことがある。日本馬力は1999年施行の計量法で廃止された」
Wikipediaは(出典が示されていても)信用してはならないのですが、まして出典が示されていないこの記述をそのまま信用したネット記事、出版物も少なくないこともわかりました。
という訳で、昔の計量法を調べることにしたのです。