遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
新年第一号の記事です。
http://jfrmc.tou3.com/Entry/7/で取り上げた別冊MCの記事ですが、ライディングスポーツ誌にもRS125Rの記事があり、また、ホンダのサイトにも
http://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2009/rs125r/
RS125記事がありますので、ホンダ提供の企画のようですね。
ここではホンダのサイトの文の問題点を記します。一部、
http://jfrmc.tou3.com/Entry/7/
と重複します。「」の文が引用した記事です。
「1973年には、2ストロークエンジン主流の状況の中、4ストロークエンジンの公道用市販車CB125JXベースのマシンで角谷新二が全日本選手権125ccクラスのチャンピオンを獲得している。」
●1972年に発売された「CB125JX」は2気筒です。
http://www.honda.co.jp/news/1972/2720819.html
レーサーのベースになったのは単気筒のCB125Sです。1975年に単気筒のCB125JXが発売されます。
http://www.honda.co.jp/news/1975/2750430.html
次の年表では1972年にCB125Sの後継として単気筒CB125JXが登場するようになっていますが、間違いです。
http://www.honda.co.jp/pressroom/library/motor/sports/cb_cbx/index2.html
「翌1974年は、ヤマハが2ストローク2気筒の新型市販ロードレーサーを投入。これに対しHondaの社内チームは、この頃リリースされたHonda初の量産2ストローク125=モトクロッサーCR125Mをベースとした単気筒マシンで対抗するが、2気筒マシンの圧倒的スピードの前に2年連続で敗れてしまう。」
●ヤマハ2ストローク2気筒の市販レーサーTA125が登場したのは1973年の間違いです。1974年、1975年とヤマハのライダーがタイトルを獲得したのは1974年にTA125が市販されたため、と勘違いしています。
「この時期、Hondaはヨーロッパの耐久レース参戦準備を進めていた。2輪レース活動の再開という空気の中で、CR125Mをベースにエンジンの高回転化とフレームのモデファイを施した市販125ロードレーサーが開発された。」
●1974年の文の次に「この時期」とありますが、ホンダがRCBによる耐久レース参戦を計画したのは1975年後半で、CR125Mをベースとする市販125ロードレーサーが開発されていたのも同時期と考えられます。「この時期」は意味不明。
http://www.honda.co.jp/WGP/spcontents2009/rs125r/index2.html 中の
「高回転・高出力の2気筒エンジンを使用するライバルに対して、MT125Rは出力的に不利な単気筒ながら、その軽さとコンパクトなサイズを生かしたハンドリングと、低回転のトルクを武器としていた。さらに年ごとの改良、特にキットパーツによるエンジンの水冷化によって、MT125Rは基本設計の古かったライバルを突き放すことに成功。1976、77年は社内チームの飯田浩之が、1978年はRSC契約の上田公次がチャンピオンを獲得し、3年連続で全日本125を制覇している。」
「このMT125Rの活躍を阻止するため、1977年にヤマハは水冷単気筒のワークスマシンYZRを投入、さらにこのマシンのレプリカである市販ロードレーサーTZも販売した。」
●「基本設計の古かったライバル」とは本来、ヤマハTA125を指すものと思われますが、「1977年にヤマハは水冷単気筒~」が続いているため、「YZR125」が基本設計の古いマシンのようにも受け取れます。
1978年にホンダのライバルになったのはTA125ではなくヤマハYZR125です。1977年最終戦日本GPでヤマハYZR125が日本初登場し、1978年125ccクラスを席巻していましたが、このマシンは非公認車両でタイトル争いとは無関係です。MT125Rは水冷化しなくともTA125に対しては優位に立っており、タイトルは獲得できました。水冷化はむしろYZR125対策といっていいでしょう。
なお、水冷キットが登場したのは1978年最終戦日本GPです。このレースでYZR125に乗る江崎を上田が0.09秒差で退け優勝しました。
●TZ125の記事が1977年のYZR125の登場に続いていますが、TZ125の販売は1979年シーズン後半です。
まとめ
このような記事をまとめてホンダのサイトに掲載すること自体は評価しますが、ホンダのサイトの記事なのですから、もう少し、当時の125ccの熱い雰囲気が伝わるよう事実に立脚した文にしていただきたかったです。
http://vitz1f.ninja-x.jp/book/bs.htm
を更新しました。書庫スペースを確保してから時間がかかりましたが、やっと整理できました。これで置き場所を気にせず本を購入することができます。
書庫を整理した後の問題はどの資料にどの記事、写真があるかを整理することですが、今のところ、仕事以外の人間データベースはあまり劣化していません。時々資料をチェックして人間データベースが劣化しないようにします。これをボケ防止といいます。
さて、今年1年、JFRMCをご訪問いただいた皆様ありがとうございました。よいお年をお迎えください。
続きです。
98頁のロバーツの写真について「この頃まだagvの安全性を信用してなくて、プラクティスや予選ではBELLを被ってたんですね」とあります。
この写真と28頁上の写真と比べてみれば、これが第1戦イタリアGPで撮影されたものであることがわかります。
さて、ロバーツのつなぎは1979年のものです。また、
http://noda-kenichi.hp.infoseek.co.jp/ow48/ow48-1.htm
の第1戦のところで分るように、第1戦のプラクティスで既に、1980仕様つなぎ、agvヘルメットを着用しています。一方、GPシーズン前のイモラ200ではベルヘルメット+1979仕様つなぎです。
本来の第1戦ベネズエラGPが資金的な問題、次のオーストリアGPが季節外れの大雪で中止されたのですが、イタリアGPからヘルメット、つなぎが変わるはずだったが、写真の時点では間に合わなかったのではないか、件の写真は土日の公式予選(official practice)で撮影されたものではなく、木曜日ぐらいに撮影されたものではないか、と想像しています。
少なくとも第2戦以降の公式予選等で確認できるのはagvヘルメットのみでベルヘルメットは確認できません。
次に25頁に1981年の体制について「このシーズンからようやくヤマハ本社契約となり、~インタカラーではなくヤマハワークスカラーとなったマシン~」とあり、75頁のQ92でも「単純にヤマハ本社契約となったから」とあります。
私の記憶では1980年のチーム体制について、当時のMoto Rider誌(シーズン前の号)では「ヤマハ本社契約となったが、インターカラーのままになった」というような記事があったかと思います。