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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

鈴鹿サーキットの設計者は誰?(3)

鈴鹿サーキットの設計者 (ganriki.net)

に加筆し、さらに続きを追加しました。

 サーキットの設計を「概略設計」と「詳細設計」に分け、

鈴鹿サーキットの概略設計者はフーゲンホルツ/塩崎である

としました。どちらか一人だけに限定するなら

鈴鹿サーキットの概略設計の大部分はフーゲンホルツが行った

になります。

鈴鹿サーキットの設計者 (ganriki.net)
は次回で終わりにします。




 

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自転車サイドカー

MASA(航空宇宙・軍事) on X: "じ、自転車に乳母車を連結してサイドカーに!? 面白い発想だなぁ。でもバイクと同じ事をしてるんだから何も不思議はない発想ですね。 前後に子供を乗せるより安全に見えますが、やはり小回りが効かないとか狭い道を通れないとか、実用上の問題があったのでしょう。" / X


 モーターサイクルが登場する前から自転車サイドカーがありました。ですからモーターサイクルが登場するとモーターサイクルサイドカーが当然のように生まれました。

  私はこんな自転車サイドカーを見た記憶があります。
image.html (800×533) (cocolog-nifty.com)

 畳屋さん、ガラス屋さんがサイドカーに製品を横向きに立て、片手で支えていました。ですから片手運転ですね。住んでいたのは高低差が少ない地域だったからかな。

 最後に見たのは1973年頃だった記憶です。

鈴鹿サーキットのストレート部の長さ

鈴鹿サーキット - Wikipedia では

メインストレート 800m
西ストレート 1200m

になっています。

鈴鹿サーキットの公式数字は
suzuka_courseguide.pdf (suzukacircuit.jp)

メインストレート 約800m
西ストレート 約1000m

です。

 しかし、開業(1962年)当時の雑誌掲載のコース図からすると

メインストレート 770m
西ストレート 890m

辺りです。1980年代に第1~第2コーナー、スプーンカーブが少し内側に小さくなっていますから、今はこれより少し短くなっているでしょう。

 ホームストレートの公式数字「800m」は770mの四捨五入になりますが、西ストレート「約1000m」は少しサバを読んでいるのかなと思います。

開業時の雑誌掲載図

 現在の鈴鹿サーキットをgoogleで距離測定したもの


 もちろん、Wikipediaの「1200m」は論外です。





 




鈴鹿サーキットの設計者は誰?(2)

 富士スピードウェイの改修工事(2005年2月竣工)の設計はティルケによるものと知られていますが、工事を行った大成建設
富士スピードウェイ[改修造成] | 大成建設株式会社 (taisei.co.jp)

によると「設計・関連コンサルタント」は三菱地所設計となっていますし、三菱地所設計も実績としています。
富士スピードウェイ|PROJECT|株式会社 三菱地所設計 (mjd.co.jp)


 設計を概略設計と詳細設計に二分するなら、ティルケが概略設計、三菱地所が詳細設計ということでしょう。

 鈴鹿サーキットの設計者に関して

 慎慮と洞察 » 鈴鹿サーキット (bxinstitute.com)

では

「私は工業デザイナーであるので自分の家くらいはデザインし図面を画くことはできる。しかし、その図面で大工さんは、施工会社は家を造ることが出来ないし、それ以前に役所に建築申請もできない。資格がないからであり、施工業者はそれだけでは施工できないからである。したがって、設計上の約束事や、法的な遵守事項はやはり、専門の建築家にお願いしなければ具現化できないことになる」

と書いているのは、まさにこのことを指しているのです。

 「サーキットの設計者」論争はこのことが整理されていないことが大きな問題点です。

鈴鹿サーキットの設計者は誰?

鈴鹿サーキットの設計者 (ganriki.net)

を部分公開しました。

 そもそもサーキットの建設という土木工事の設計とは何か?が大きな論点になるとは思いますが、まずフーゲンホルツとホンダの接点についての中島氏の記事についてここで書きます。

検証1 はたしてモーカルク氏は実在の人物だったのか?|Takahiko Nakajima (note.com)

 で「結果1 ロッテルダムにはホンダ販売店はなかった。ホンダを輸入するHonda Motors NV はロッテルダム近くにある都市Ridderkerkにある会社であったが、存在したのは1967年~1979年であった。1960年時点でホンダ代理店がオランダには存在していなかったのである

 としていますが、これは誤りです。「honda amsterdam 1959」で検索すればホンダ250が1959年にアムステルダムショーで展示されたこと、一定数がオランダに輸出されたことがわかります。

 これを裏付けるのがホンダ広報誌「フライング 1959-7」の記述です。

 1959年マン島TTレースのホンダが初出場しますが、羽田を出発する時に河島監督、ライダー(4人)と一緒だった整備員の関口氏、廣田氏は帰国時のチームの写真には写っていません。これについて河島監督は次のように語っています。

「私ども(河島監督、飯田(マネージャー)、ライダー)がロンドンを出ます11日の朝、オランダに先に参りました整備員の2人から電話がありまして~~オランダに参りました翌日にはデーラー関係の他に報道関係まで集めまして~」

 関口氏、廣田氏はオランダに輸出したホンダ250の故障の対応ためオランダに赴いたものとされています(グランプリ・イラストレイテッド1987-3)。

 中島氏の調査方法で得られた結果1が誤りだったことから、結果2の価値は低いものと判断せざるを得ません。




 


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