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JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

0W54その2

を公開しました。
https://jfrmc.ganriki.net/ow54/ow54-2.html

 以前、ブログで公開した内容を基本に若干の加筆、写真追加したものです。
 他のマシンでは戦績等についても書いたりすることが多かったのですが、だんだん、その作業が億劫になっていて、それに仕事のこともあって、更新をさぼっていましたが、こんな形なら何とかまとめられたというところです。



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ART AND SCIENCE

https://twitter.com/KGN_works/status/1295971865572253698
を読んで思い出したのはこの本。
https://www.amazon.co.jp/Art-Science-Motorcycle-Road-Racing/dp/090513835X

 写真は1986年頃の増補版で、初版が1982/1/1になっていますが誤りです。初版本には「published in 1982」とだけ記されていますが、本の中に1982年シーズンの写真があるのですから、1982年の終わり頃の発行です。

 昔、この本の序文を読んでいて、artの意味が「芸術」ではおかしいと気が付いて、英和辞典で調べると、職人技、名人芸といった意味が載っていて、この本のartはこちらだなと分ったのです。

 もちろん、日本では職人技と芸術を別の意味で捉えていますが、英語では同じ言葉なのです。平田オリザ氏の「芸術立国論」の「芸術」をartと訳したら、英語人は「職人技立国論」と理解するのかな?

1980年のケニー・ロバーツ(ヤマハ)はどこと契約した?

 ケニー・ロバーツが500CC世界GPに参戦した6年間のうち、1978-80は、黄色主体のいわゆるインターカラーで、1981-82がヤマハ・ファクトリーカラーというべき白地に赤ストライプ、1983年がマルボロカラーでした。
 
 このことから、雑誌等では「ロバーツは1978-80年はヤマハのアメリカ現地法人Y.M.U.Sとの契約、1981-82年はヤマハ本社契約」と書かれた記事をよく見かけます。ヤマハのウェブサイトでも、1981年について「K・ロバーツが本社契約ライダーとして参戦し~」と1981年から本社契約となったかのように書かれています。
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/season1980_89/1981/


 このことについて、ケル・カラザースは24年前に次のように語っています。
https://web.archive.org/web/20101221015640/http://superbikeplanet.com/2002-Sep/kelcarruthers1996.htm

”(注 1978年について)It was all financed by America (Yamaha). They paid me, they paid Kenny. They got me a budget to run the race team. Of course Kenny won the championship and the next year he won it again and then the factory more or less decided that they'd give up the factory team and let me run the factory team. So I ran the factory team and was contracted to Japan and basically I had Kenny as a rider and we had mechanics and one engineer from Japan.

 簡単にまとめると「1978、79はヤマハ(アメリカ)が資金を出し、1978、79とタイトルを手にしたが、1980年、ヤマハ(日本)はファクトリーチームの自社運営を諦め、ヤマハ(日本)はカラザースにファクトリーチームの運営を委託した」のです。これが、ロバーツがY.M.U.Sの契約でないにも関わらず1980年のロバーツのマシンのカラーリングがインターカラーのままだった理由です。

 マシンのカラーリングだけでライダーの契約関係を判断することはできないのです。

(続きが書けるかな)

ヤマハ0W54その1を公開しました。

http://jfrmc.ganriki.net/ow54/ow54-1.html

 5~6月にブログで公開した内容をまとめ直したものです。
 他のマシンとは異なるまとめ方になりましたが、こんなまとめ方もいいのではないかと思います。趣味のことですから。

 ところで、0W48(1980年型並列4気筒)、0W53(1981年型並列4気筒)、0W60(1982年型スクエア4気筒)は現存していますが、0W54は今のところ現存しているという情報はありません。

2020鈴鹿8時間耐久レースは中止

https://news.yahoo.co.jp/articles/5d91d8d70d2790f6ea5e10bf05ead1f01405a4ed

 11月開催で準備が進められていましたが中止になりました。現状では止むを得ない判断だと思います。

 1978年の8時間耐久レースを見に行きました。土曜日午前中の予選はグランドスタンドで、午後のノービス125、ジュニア125㏄レースはヘアピンで、18時からの練習走行はグランドスタンドで見た記憶です。日曜日のレースはグランドスタンド→最終コーナー出口→入口→ヘアピン→逆順でスタンドに戻る、で見ました。

 当時は夏といっても近年と違ってそんなに暑くなかったし、日陰は涼しかった記憶です。ただ、日差しは強くて、78年は日焼け対策が不十分で、ばててしまいましたが、79年以降は日焼け対策等をするようになり、そんなに疲れなかったと思います。若かったなあ。

 記憶では1978年は土日共に晴れ、1979年は土曜日は薄曇りで午後ににわか雨が降り、日曜日は曇り時々晴れ、1980年は金曜日は晴れで土曜日は曇り
後雨(4時間耐久は雨中)、日曜日は晴れでした。
 あれから40年余りですが、当時のレースそのものの記憶は今でも鮮明です。

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