忍者ブログ

JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

鈴鹿サーキットのヘアピン付近はし尿捨て場だった?(修正しました)

オートスポーツ1994-6-1にホンダの飯田佳孝氏のインタビュー記事があり、ヘアピンカーブの工事中の写真に「この辺はし尿捨て場だったんです。工事中は臭って臭って・・・」とあります。

 今では考えられないことですが、し尿の海洋投棄、埋立処分は当たり前のように行われていました。瀬戸内海のような閉鎖性海域ですら、1973年3月までし尿の海洋投棄が行われていたのです
 
 近くの亀山市では「し尿が肥料に使われなくなると、山に大きな穴を掘ってし尿をすてていましたが、それでも捨てる場所がたりなくなり、1966年に亀山地域の、1976年には関地域のし尿処理場が完成しました」とされています。

https://kameyamarekihaku.jp/kodomo/w_e_b/rekishi/gendai/gyosei/page006.html

 鈴鹿市では
https://www.city.suzuka.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/613/04.pdf

「本市のし尿処理事業は,塵芥処理事業とともに,「鈴鹿市清掃条例」の制定された昭和32年7 月から業務を開始しました。当時は,特別清掃地区に指定した地区内の希望者を対象として収集を行い,農業地域に54ヶ所の貯留槽を設け,無料で農家に提供していました。 現在のように市内全域を対象として計画収集を開始したのは,上野町に嫌気性消化処理方式による処理能力78kℓ/日の「東谷し尿処理場」を開設した昭和40年4月からで~」
 
でした。鈴鹿サーキット周辺は農地ですので、し尿捨て場ではなく貯留槽だと思います。飯田氏の「臭くて臭くて」の理由として
 
〇貯留槽からし尿が溢れていた。特に農地でし尿を必要としない時期に。
〇貯留槽がひび割れしてし尿が漏れてた。地下浸透して周辺の土が臭くなっていた。
 
というようなことも考えられます。

 

 


PR

日本製鉄 千葉製鉄所がシアン排出

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250226/k10014734081000.html


 2004年にはJFEスチールもシアン流出で、海上保安庁の強制捜査を受けました。
https://www.jfe-steel.co.jp/works/east/chiba/env-pdf/20051024.pdf

 両社がシアン化合物を製造過程で使用していたかどうかはわかりませんが、焼却炉等、高温条件で炭素化合物と窒素化合物が混在するとシアンイオンが生成してしまいます。


 製鋼所にはそんな条件の施設もあります。JFEスチールではダスト製錬炉が原因でした。量等を考えると今回も製鋼関係施設が原因かなと。







ジェフ・デュークとホンダ

デュークがモーターサイクル出版社(現「八重洲出版」)の求めに応じて来日し各社を訪問したのは1960年4月ですが、細かい日程までは知りませんでした。

 https://jfrmc.ganriki.net/zakkan/kousei/kousei33.htm

で、デュークの日本訪問が1959年のホンダのマン島TT初出場の前だったという勘違い記事(143頁、151頁)を校正していました。


 デュークがホンダを訪問した日付が1960年4月22日(金)とわかりました(本田労組15年史 1968)ので、これを記事に加筆しました。


ヘッドランプ常時点灯

バイクのヘッドライトが常時点灯している理由とその背景とは

「ヘッドライトの常時点灯が義務化されたのは、1998年に施行された道路運送車両法の改正によるもので~常時点灯が義務化される以前に生産されていたバイクには、ヘッドライトのON/OFFのスイッチが備わっていました。」

 私が購入した1992年型のバイクは常時点灯でした。同機種の1991年型は常時点灯ではなく、マイナーチェンジの際に常時点灯になったのです。常時点灯義務化が1998年なら、国内4メーカーは自主的取り組みとして逐次、常時点灯化を進めたのでしょう。

 https://bike-news.jp/post/269485

 によると

「バイク事故の増加にともない、事故防止の観点からヘッドライトの常時点灯が推奨されるようになったのです。これは、1989年に「バイクは昼間もライト・オン!」と呼び掛けたPR活動が、日本自動車工業会などの主導のもとおこなわれたのがきっかけでした。」

ということのようです。

 あるいは海外で先に常時点灯義務化が進んだので、コスト増加を避けるために国内も常時点灯にした、という意味もあったかもしれません。


 



 




ヤマハRZ250

https://www.autoby.jp/_ct/17744983


「レースシーンで培ったノウハウを惜しみなく投入し、エンジンは市販レーサー・TZと同じボア・ストローク比を採用。排出ガス浄化のため燃焼効率が徹底的に見直され、燃料と2ストオイルの分離給油やCDI点火も導入された結果、最高出力は35PSに達した。これはリッター当たり140PSという驚異的なもので、当時の250ccモデルとしては異例の高性能だった。

 ボア・ストローク比といいますが、ボア・ストローク(54×54mm)が同じなのですから「比」は不要ですね。だいたい、1970年発売のDX250(空冷)から同じボア・ストロークです。

 ヤマハ250が分離給油になったのは1960年代です。

 ヤマハ250・2ストローク並列2気筒がCDIになったのは1979年型RD250(空冷)です。

 RZ250が発表されたのは1979年、46年前ですが、初めて姿を見せたのはパリ・ショーだったと思います。この時は輸出の主力となるRZ350(輸出版の名称はRD350LC)でした。
 RZ250が国内発売されたのは1980年8月で、私が初めて見たのは1980年8月下旬でした。その頃、私は某所で2週間研修を受けていたのですが、夕方まだ明るい時間帯に見た記憶ですので、研修が休みだった8月24日((日))だったと思います。2人乗りの白のRZ250が国道〇号線を東向きに走っていた光景は今でも鮮明です。
 
 当時、一般市販車の改造範囲が厳しく制限されたマシンによるプロダクションレースが行われていましたが、1980年日本GPのプロダクションレース(9月13日・土曜日)でRZ250が初登場し優勝(確か2位もRZ250だった記憶)。ただ、RZ250がMFJに公認されたのは9月12日ですので、ぎりぎり間に合ったというところでしょう。

 

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

リンク

カテゴリー

フリーエリア

最新CM

[04/02 history essay writer]
[03/26 野田]
[03/26 TFR_BIGMOSA]
[03/12 野田]
[03/12 野田]
[03/12 野田]
[03/12 平野克美]
[03/12 平野克美]
[02/21 野田]
[02/21 TFR_BIGMOSA]

最新記事

最新TB

プロフィール

HN:
野田健一
性別:
男性

バーコード

RSS

ブログ内検索

アーカイブ

最古記事

P R

カウンター

アクセス解析