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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ヤマハ歴史車両走行会

の総集編の映像が公開されています(リンク)。

 本橋明泰さんの最後のデモ走行とのこと。もう81歳になられたのですね。本橋さんについてはこちら。
本橋明泰 - レース情報 | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com)
 
 本橋さんがレースを走る姿を見たことはありません。当時、雑誌の記事で見ただけです。

 初めて見た走行シーンは、1997年の鈴鹿ヒストリックミーティングでTZ750に乗った姿ですが、エンジンの調子がイマイチだった記憶です。この時、本橋さんは57歳、もちろん、今では私も57歳を過ぎています。

 その後、イベントでTR-3、RA97、RD56、RD05Aに乗られたのを見たことがあります。そして、少しばかりお話を聞くことができ、サインも頂戴しましたが、いつも気さくな紳士でした。

 2016年の走行会では、来場者が多くて走行まで本橋さんがどこにいるのかわからないような状態。その時の走行が私が見た最後の本橋さんの雄姿になりました。
 これまでありがとうございました。


・・・・・・
本橋明泰 - レース情報 | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com)の記事ですが・・・

第1回全日本選手権ロードレース(鈴鹿サーキット)でノービス250cc予選1位を獲得」 3位の誤りです。
1962年 第1回全日本選手権(ノービス) (iom1960.com)

'66年日本125cc3位」 ’66年日本250㏄3位の誤りです。

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イタリアGPの名称(2)

 私はイタリア語やイタリアの歴史についてあまり知りませんが、誤謬を恐れず、個人的な感想を書きます。
・・・・
 まず、イタリアで開催されたGPの名称を整理します。

1913、1921  Gran Premio d'Italia
1922~1934  Gran Premio delle Nazioni
1936~1938  Gran Premio d'Italia
1947~1990  Gran Premio delle Nazioni(1949年から世界選手権)
1991~          Gran Premio d'Italia
 
 さて、イタリアがある程度統一されたのは1861年です。その後、ローマ、ベネツィア一帯がイタリアになり、第一次大戦後の1920年に「未回収のイタリア」の大部分がイタリアになりました。
未回収のイタリア (y-history.net
 イタリアGPの名称がGrand Premio delle Nazioniになった1922年は、このような情勢下です。

 さて、レースの方に話を戻すと、20世紀に入り、各国で国名、地域名、組織名(U.M.F.:Union Motocycliste de France)を冠したGPが行われるようになっていました(マン島TTを除いて)。

 当時、ヨーロッパで各国のレース主催団体が集まった組織としてFICM(Fédération Internationale des Clubs Motocyclistes)があり、イタリアの団体も加盟していました。そして、1924年からGrand Prix d'Europe F.I.C.M.が行われるようになります。これは、毎年、各地を転戦する今のような選手権ではなく、ある国のグランプリをGrand Prix d'Europe F.I.C.M.としても行い、勝者をヨーロッパチャンピオンとするものです。

 さて、delleは英語ではofに相当します。Grand Prix d'Europe F.I.C.M.の「d'」はフランス語のdeの語尾音省略形で、これもofに相当します。

ofの意味は
ofの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

 レースの名称が

Grand Prix of 「国名(又は地名、組織名)」


 ならofの意味が理解できます。Grand Prix d'Europe F.I.C.Mも、F.I.C.M.として
〇「ヨーロッパに属する」Grand  Prix
あるいは
〇「ヨーロッパが行う」Grand Prix
を開催するのですから。

 しかし、Nazioniをイタリア及びイタリア以外の国々の「諸国」とした場合、ofの意味の理解に苦しみます。各国のグランプリには国名(又は地名、組織名)を冠するのが一般的であったにも関わらず、Grand Prix d'Europe F.I.C.Mが始まる2年前に、イタリアでのGPがF.I.C.M.(第二次大戦後はF.I.M.)の名の下に、諸国を代表する形で行われたとは考えられないからです。

 2024年からGrand Prix d'Europe F.I.C.M.が始まるのに先んじて、イタリアの主催団体が、勝手に「諸国」を使い出したということも考えられますが、そもそもグランプリ、Gran Premio は「大賞」→その国で最高の賞を争うレースであり、1922年当時、(未回収のイタリアが領土となり)民族意識が高まっていたのに、そのようなレースに「諸国」を冠するとは思えません。

 ちょっと話題を変えて、Inno delle nazioniという曲について考えてみます。イタリア統一(1961年)の翌年のロンドン万博(1962年)のためにヴェルディが作曲した曲で、歌詞と曲の解説はこちら。
ヴェルディ Inno delle nazioni (biglobe.ne.jp)
 
 日本語の曲名が「諸国民の賛歌」となっています。確かに「万博のために作曲」という背景、「フランス国歌、イギリス国歌が盛り込まれている」ことからすると、この訳が適切なように思えてしまいます。

 しかし、歌詞からすると、私にはこの曲に「イタリア万歳、統一を応援してくれたフランスさん、イギリスさん、ありがとう」というイメージしか湧きません。
 とすると、この曲のnazioniはイタリア統一前の国々(諸国)を指すのではないかと思えるのです。つまり、この曲名は

(統一された諸国=)イタリアの賛歌

という意味が込められているように思えてなりません。

 Gran Premio delle NazioniのNazioniも同様だとするなら、

「(統一された諸国=)イタリアのグランプリ」

あるいは

「全国グランプリ」(「国の全て」ではなく「我々の全ての国」)

のような意味なのでしょうか。そうなら、上で書いた疑問点も解決するのですが。

 仮に、この解釈が正しいとするなら、そのような名称を採用した理由としては、
〇四輪のイタリアでのグランプリは、一貫してGran Premio d'Italiaと称されていたことからすると、「四輪のGran Premio」と区別するため
〇イタリアとして統一されたとはいえ、地域による言葉の違い、南北格差がある中で、「我々の全ての国」を訴えるため

ぐらいが想像できます。

 このNazioniが何を指すのかを知るためには、現在のイタリア人に確認するだけでは不十分で、1922年当時、そして第二次大戦後、再びdelle Nazioniを冠するようになった1947年当時、Nazioniにどんな意味があったのか、あるいはどんな意味が込められていたのかを確認する必要があります。


 なお、私のサイト中では、Gran Premio delle Nazioniを「イタリアグランプリ(イタリアGP)」と表記しています。「ネイションズグランプリ」としてしまうと、「F.I.Mの名の下、ヨーロッパを代表するグランプリ」のようなものかと思われてしまいますので。
 

「的を得る」は誤用ではないーイタリアGPの名称

 詳しくはこちら。
11.「的を得る」は「的を射る」の誤用ではない? 底無しの「日本語沼」の話 - 間違えやすい日本語表現(澤田慎梧) - カクヨム (kakuyomu.jp)

 他にも詳しく解説されている方がおられます。

 「ガールズ&パンツァー」のパンツァー=panzer はドイツ語で「装甲」、「戦車」ですが、ドイツ人にとってpanzerといえば戦車をまず思い浮かべるそうです。
 では、第二次世界大戦中はどうだったのでしょうか? ドイツの宣伝映画をyoutubeで見ることができますが、ナレーターが「panzer!」と叫んだ後に戦車が登場するシーンがあったりするので、第二次世界大戦中でもpanzerの一義的な意味は戦車だったようです。

 さて、かつて、イタリアグランプリの正式名称は

Gran Premio delle Nazioni
でした。nazioniはnazioneの複数形です。

 そのまま英語に訳すと
Grand Prix of Nations
になります。MOTO GPの公式サイトでも、かつてのイタリアGPをこのように表記していますし、これに倣ってか、日本の雑誌等でもかつてのイタリアGPをネイションズGPと表記するようになりました。

 問題はnazioniが何を指すかです。辞書では
国家(複数形なので諸国とした方がいいかな)
国民
が主な意味です。
  
   イタリアでGPが初めて開催されたのは1914年で、その時、そして第1次世界大戦を挟んで1921年は Gran Premio d'Italie でした。そして1922からGran Premio delle Nazioniになりました。

 その2年前に国際連盟が成立しましたが、国際連盟はイタリア語では
Società delle Nazioniです。このNazioniはイタリア、イギリス・・・等の諸国です。

 では、Gran Premio delle Nazioni のNazioniも同じ「諸国」なのでしょうか。

 

ヤマハ0W35(10) 高井幾次郎選手

 高井幾次郎選手が1978年スペインGPに参戦したことにほとんど触れられることがありません。ヤマハのWGP参戦50周年記念サイト中の1978年の頁にも高井選手の名前はありません。
 1978年 - レース情報 | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com)
 
 まず、別冊モーターサイクリスト79-8の記事を紹介します。


 「昨年(注:1978年)も、ヨーロッパへ今年を同じような目的で飛んだが、転倒によるケガのため、その結果は不振に終わった。初戦、フランス・イモラ(注:青字はポールリカールの誤り。4月9日開催のMOTO JOUNAL 200)での750㏄世界選手権は4位とまずまずの出足だったものの、スペインでのGP500では先行するマシンの転倒に巻き込まれ転倒骨折、すぐにベルギーに戻って手術。予定されたオーストリアGP500は観戦。続くフランスでのGP500は手術の糸が取れないまま練習開始したが再び転倒、イタリアでのGP500はケガの治らないうちに走り出したものの、手が満足に上がらない状態だったために、ドクターストップ」

 ライダースクラブ78-7中、スペインGPの記事では
「~高井が周遅れのマシンと接触転倒してしまい、鎖骨を折ってしまったのだ。惜しいことに、スタートで出遅れた高井が、やっとチェコット、シーン、ベーカーのセカンド・グループに追いついた直後の出来事だったのである」

 2誌の赤字の記述が異なっています。

 このレース、0W35Kに乗るロバーツ、セコット、片山、スズキXR22に乗るシーン、ヘネン、XR14に乗るベーカー、何れも完走していますので、ライダースクラブ誌の記述が正しいと思われます。
 なお、高井はスペインGPプラクティスでシーンに0.1秒遅れの6位でした。

 スペインGPでの転倒がなかったらどんな結果になったのかと思わざるを得ません。

ヤマハ0W35(9) 第7戦プラクティスでロバーツが乗ったセコットのマシン

 1978年シーズン当初、セコットには2台のマシンが与えられ、片山、ロバーツには1台しか与えられませんでした。ロバーツには第10戦イギリスから2台体制になりましたが、片山は?

 さて、ロバーツは第7戦ベルギーのプラクティスでセコットのマシン(カラーリングもヤマハカラーそのまま)に乗ったことが知られています。


 このことについて、RACERS Volume 02(2009三栄書房)では、その写真と共に次のような説明があります。
「~初めて走る苦手の公道コース、しかもウェット路面という悪コンディションの予選で転倒、Tカーのない彼は、同じ0W35Kに乗るチェコットのマシンを借りて予選通過を果した」

 MOTORCOURSE1978-79(Hazleton 1979)によると

The day before the race, the rain stopped and was replaced by a warm sun. Seizures had been the fashionable problem during the earlier practice and on the Saturday they set in with a vengeance.
Roberts's 250 seized, and then his 500, after one lap of the final practice.~~~Roberts was out on the track, on Cecotto's spare bike.
です。
  つまり、晴の最終プラクティス1周目でエンジンが焼き付いてしまったために、セコットのマシンにも乗ったとのことです。これからすると、RACERSの記述は誤りということになります。



 さて、セコットに与えられた2台のマシンには、2台のマシンを区別するための印がつけられており、ロバーツが乗ったのは1号車です。セコットが乾燥路面のプラクティスで1号車に乗った写真(おそらく最終プラクティスの前のプラクティス)もあります。
 なお、セコットはレースで2号車に乗りました。

 また、セコットのマシンのタイヤはミシュラン、ロバーツのマシンはグッドイヤーですが、次の理由からロバーツが乗ったセコットのマシンはミシュランのままだったと考えます。

〇後タイヤのハイトが大きくミシュランに見える。
写真はこちら(リンク)
〇セコットの0W35Kは前5本スポーク(カンパニョーロ)、後7本スポーク(モーリス)を装着することが多く、ロバーツの0W35Kは前後7本スポーク(モーリス)でしたが、ロバーツが乗ったセコットのマシンは、前5本スポーク、後7本スポーク。

 MOTOCOURSEの記述からすると、
金曜日のプラクティスは雨、土曜日のプラクティスは晴れでした。ロバーツが土曜日1回目のプラクティスで十分なタイムを出しているなら、2回目(最終)でセコットのミシュランタイヤ装着の、つまり乗りなれてないセコットのマシンに数周乗る必要はないと思えます。
 また、レース本番では本来のロバーツのマシン+グットイヤーで走るのですから、ミシュランタイヤを履いて走ったとしても、本来のマシンのセッティングの参考になるとも思えません。
 
 考えられることは

ケース1
 土曜日1回目のプラクティスで、ロバーツが転倒かマシントラブルで、クオリファイされるタイムが出せなかった。あるいはかなり低順位のタイムしか出せなかった。RACERS の記述はこのことを指しているのかもしれません。

ケース2
 土曜日1回目のプラクティス、晴れたとはいえ路面のあちこちが湿った状態だったため、
クオリファイされるタイムが出せなかった。あるいはかなり低順位のタイムしか出せなかった。

 どちらにしても、ロバーツにとって切羽詰まった状況だったようです。

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