ところで読んでいて、スズキの中野広之氏が書かれたウェブサイト上の記事に似た文がありました。
中野氏は吉村誠也氏のサイトで記事を公開していました(1999年~)。
http://www.europark.com/nakano/index.htm
ところが中野氏が記事を書かれても吉村氏がなかなかアップしてくれないのに業を煮やしたのか、中野氏自らウェブサイトを開設されます。
http://www.iom1960.com/
この本(日本グランプリレース)は2003年10月30日発行ですが、この発行までには開設されていた記憶です。
吉村氏のサイト中の記事と比較してみましょう。
「6月30日朝、浅間山が爆発したが、曇りのため煙が少々見えた程度だった」http://www.europark.com/nakano/1959.htm
「6月30日には、浅間山が爆発したが、曇りのため煙が少々見えた程度だった」(42頁)
「いろいろ新しい問題を抱えているのに、台風7号が近づいたため、雨でテストができず、焦る。13日夜半には台風が直撃し、昌和クルーザーの宿舎の屋根が吹っ飛んだ。樹木も根こそぎ倒れ、コースも水びたしだった」
http://www.europark.com/nakano/1959.htm
「8月12日には、台風7号が近づき、雨でテストができず各社が焦る。13日夜半には、台風7号が直撃し、昌和クルーザーの宿舎の屋根が吹き飛び、樹木も根こそぎ倒れ、コースも水びたしになった」(42頁)
(なお、
http://www.europark.com/nakano/1959.htmでは、上の文の前に「
12日には、他メーカーが顔を見せない早朝から、RB本命車で初の全開耐久テストを始めた。しかし、あいにくの降雨のため、数周でやむなく終了。RA練習車のときには発生しなかったエンジンの “バラバラ(不整燃焼?)” が全車に発生していた。原因はわからなかったが、分解してみて驚いた。ピストンが溶けはじめているものあり、トップリングが折損しているものあり、ピストンピンセットリングが外れて折損しているものありといったありさまだった。まったく、次から次へといろいろ問題が出るものだ。コース解放日はあと6日しかない。ホンダの本命車も姿を現わし、連続走行を始めた。我々もRA練習車で練習開始だ」とあり、12日も走行していた。)
「マン島遠征のため、ホンダチームとスズキチームで日本選手団を結成した。団長は小型自動車工業会の立松さん。5月10日、東京丸の内会館で壮行会を開催。そして翌日にはBOAC機でロンドンへ。当時はヨーロッパへの直通便はもちろん、アンカレッジ経由の北回り線もなく、東京~香港~バンコック~デリー~カラチ~ベイルート~フランクフルト~ロンドンという23時間の長旅だった。ロンドンに1泊したあと、マンチェスターを経て、ようやくマン島に着いた。」
http://www.europark.com/nakano/1959.htm
「マン島出場のため、ホンダチームとスズキチームで日本選手団を結成した。5月10日、東京丸の内会館で壮行会が開かれ、翌日BOAC機にてロンドンに向かった。当時はヨーロッパへの直行便はもちろんアンカレッジ経由の北回り線もなく、東京から香港~バンコック~デリー~カラチ~ベイルート~フランクフルト~ロンドンと移動し、なんと23時間もかかる長旅だった。ロンドンに1泊し、マンチェスターを経て、マン島にようやくたどり着いた」(47頁)
いやよく似てますね。参考文献(156頁)にはどちらのサイトも参考文献になっていませんが・・・
それにしてもこんな本をよく出しますね。著者も出版社も。音楽ライター氏にはとても無理だったのです。まあ、小説家が取材せずにF-1の本を出す(リンク)くらいの国ですから不思議でもないですが。
日本グランプリレースという本を借りて読んでみました。
いや、ちょっと間違いのレベルが凄いですね。こんな本を図書館に置いていいのでしょうか。
四輪に関する記述はあまりよく分りませんが、二輪に関する記述からすると相当なものだと思います。
〇1955年の浅間高原レースが、本来、「浅間高原自動車テストコース」で行われるはずだったが、コースは完成しておらず、「建設予定地の浅間牧場の敷地をメインに北軽井沢の公道を使って行われた」(35頁)とあるが、実際に「浅間高原自動車テストコース協会」が設立されたのは1956年6月。つまり公道を使用することの様々な制約を逃れるために、テストコースを造ることになったのである。
〇1957年浅間火山レースに生沢徹が125㏄クラスに出場したことになっているが(40頁)、生沢が初出場したのは1958年の第1回モーターサイクルクラブマンレース(浅間)。
〇1959年の「第3回浅間
高原火山レース」が8月22~23日に「今回はアマチュア主体のクラブマンレースへと様相を変え」行われたことになっているが「第3回浅間火山レース」が行われたのは8月23-24日で、併催の「第2回全日本モーターサイクルクラブマンレース」は8月22-24日に行われた。
〇1959年クラブマンレース125㏄で生沢がカブで3位となっているが、生沢はカブでクラブマン50㏄で2位。
〇北野元が1958年の信太山モトクロスで優勝したことになっているが(42頁)、1959年の誤り。
〇44頁の高橋国光、伊藤史朗の記述は1959年の浅間火山レースではなく、1958年のクラブマンレースの記述(しかも誤りあり)。
〇1962年のマン島TTが4、5、6日に行われたことになっているが(50頁)、4、6、8日の誤り。マン島では中1日でレースが行われるのが原則であることを知らない。
いや、間違いをチェックしだすときりがありません。笑ってしまうのは52頁に「スズキのラグナーが独走~ラグナーが転倒したコーナーは、「ラグナーカーブ」と命名された」と、勝手にデグナーカーブをラグナーカーブに改名していることです。
(続く)
という本を読みました。軍事というと、どうしても前線等で使われる兵器に目が行きますが、それらは、それらを支える兵站があってこそで、その兵站についてまとめられた本です。なかなかこういう視点の本は少ないので、非常に興味深いものとなっています。
著者のウェブサイトはこちら。
http://www.kojii.net/
ただ、私としては少し気になる記事もあります。著者は、一部の技術についてはあまり詳しくないようなのです。
147頁
「~ガソリン・エンジンではプラグで点火する前に勝手に爆発されては困る。その現象をノッキングというが、ノッキングを防ぐために、ガソリンについてはアンチノック性が求められる」
ノッキングとプレイグニッションを混同しています。
147~148頁
「(オクタン価は)ひらたくいえば、イソオクタンだけで構成する標準燃料と同等のアンチノック性を示したガソリンのオクタン価が100ということである。~いずれにしても絶対量ではなく比率で示すのだから、試料となるガソリンのオクタン価が100を超えることはあり得ないはずなのだ」
ある燃料のアンチノック性がイソオクタンを上回っている場合でも、計算上、オクタン価を求められます。その燃料とn-ヘプタン(オクタン価=ゼロ)を1:1で混合して、混合燃料のオクタン価が60なら、ある燃料のオクタン価は120ということになります。
もちろん、こんな方法で測定しているわけではありませんが、オクタン価100超であっても、なんらかの方法でオクタン価の測定は可能です。詳しくはこちらを。
http://kikakurui.com/k2/K2280-1996-02.html
「というわけで、「オクタン価」として100を超える数字が出てきた場合、それは「グレード」あるいは「ノック・レーティング」の値と混同されている可能性が高い。前述の「表3.10」にある「91/98」や「100/130」がグレードを示す値だ。同じ表の中にノック・レーティングも出てくる」
この表中のノックレーティング(リーン)は航空法、同(リッチ)は過給法によるオクタン価です。ただし、100以上の数値はパフォーマンスナンバー(出力価)です。
この本ではオクタン価についてリサーチ法とモーター法の2種を示していますが、航空法、過給法を示していません。
148頁
「オクタン価は高いほど良いが、セタン価は低いほど良い、という違いがある。紛らわしいことに、セタン価とは別に燃料の密度と沸点から算出するセタン指数というものがあり~」
セタン価も、高いほど良いはずです。
また、「沸点」ではなく、10容量%留出温度、50容量%留出温度、90容量%留出温度です。
昔、読んでいた漫画です。この続編というべき漫画に「青の6号」があります。何回かの父の転勤・引越の際に全て失っていましたが、数か月前、ある古書店できれいな「青の6号」全3巻中、1、2巻セットを800円で売っていたので、つい購入してしまいました。その後、第3巻、そしてサブマリン707も全6巻を入手。
昔はこの漫画のとりこになっており、プラモデルもよく作りました。大人になって読むと、おかしなところがたくさんありますが・・・私が理科系の道に進む、一つのきっかけを与えてくれたと思っています。
これは全6巻中1-4巻。
実は数年前のある機会から自衛隊の基地等に行くようになっており、このことが、この漫画に再び興味をもった理由かもしれません。
これは海上自衛隊の「ひゅうが」の一部。