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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

札幌ボール祭

 今日、広島ー巨人のBS中継放送を見ていたのですが、解説者の槇原氏(元巨人)が、巨人の投手がフォアボールを多く与えていることについて、「昔、私の現役時代の前に札幌球場で、巨人の投手がたくさんのフォアボールを広島に与えたことがあった」というようなことを話してました。
 
 以下、私の記憶を書きます。ですから正確さはありません。
〇1978年、札幌円山球場のこと。何月かは覚えていません。
〇巨人の選手が1イニング10四球という「記録」を作った。関わった投手は3人。
〇試合はデーゲームで、日本テレビで19:30~21時前まで、録画放送された。日本テレビはよく放送中止にしなかったものと感心した記憶。
〇「札幌ボール祭」は翌日のスポーツ紙の見出し。今日、試合を見ながら、「こんなことがあったなあ」と妻に言うと、妻もこの見出しを覚えていました。

 なお、この年はヤクルトがセリーグ終盤に巨人を逆転し初優勝した年で、阪神は最下位(阪神にとって初めてという記憶)でした。
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0W54その2

を公開しました。
https://jfrmc.ganriki.net/ow54/ow54-2.html

 以前、ブログで公開した内容を基本に若干の加筆、写真追加したものです。
 他のマシンでは戦績等についても書いたりすることが多かったのですが、だんだん、その作業が億劫になっていて、それに仕事のこともあって、更新をさぼっていましたが、こんな形なら何とかまとめられたというところです。



ART AND SCIENCE

https://twitter.com/KGN_works/status/1295971865572253698
を読んで思い出したのはこの本。
https://www.amazon.co.jp/Art-Science-Motorcycle-Road-Racing/dp/090513835X

 写真は1986年頃の増補版で、初版が1982/1/1になっていますが誤りです。初版本には「published in 1982」とだけ記されていますが、本の中に1982年シーズンの写真があるのですから、1982年の終わり頃の発行です。

 昔、この本の序文を読んでいて、artの意味が「芸術」ではおかしいと気が付いて、英和辞典で調べると、職人技、名人芸といった意味が載っていて、この本のartはこちらだなと分ったのです。

 もちろん、日本では職人技と芸術を別の意味で捉えていますが、英語では同じ言葉なのです。平田オリザ氏の「芸術立国論」の「芸術」をartと訳したら、英語人は「職人技立国論」と理解するのかな?

1980年のケニー・ロバーツ(ヤマハ)はどこと契約した?

 ケニー・ロバーツが500CC世界GPに参戦した6年間のうち、1978-80は、黄色主体のいわゆるインターカラーで、1981-82がヤマハ・ファクトリーカラーというべき白地に赤ストライプ、1983年がマルボロカラーでした。
 
 このことから、雑誌等では「ロバーツは1978-80年はヤマハのアメリカ現地法人Y.M.U.Sとの契約、1981-82年はヤマハ本社契約」と書かれた記事をよく見かけます。ヤマハのウェブサイトでも、1981年について「K・ロバーツが本社契約ライダーとして参戦し~」と1981年から本社契約となったかのように書かれています。
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/season1980_89/1981/


 このことについて、ケル・カラザースは24年前に次のように語っています。
https://web.archive.org/web/20101221015640/http://superbikeplanet.com/2002-Sep/kelcarruthers1996.htm

”(注 1978年について)It was all financed by America (Yamaha). They paid me, they paid Kenny. They got me a budget to run the race team. Of course Kenny won the championship and the next year he won it again and then the factory more or less decided that they'd give up the factory team and let me run the factory team. So I ran the factory team and was contracted to Japan and basically I had Kenny as a rider and we had mechanics and one engineer from Japan.

 簡単にまとめると「1978、79はヤマハ(アメリカ)が資金を出し、1978、79とタイトルを手にしたが、1980年、ヤマハ(日本)はファクトリーチームの自社運営を諦め、ヤマハ(日本)はカラザースにファクトリーチームの運営を委託した」のです。これが、ロバーツがY.M.U.Sの契約でないにも関わらず1980年のロバーツのマシンのカラーリングがインターカラーのままだった理由です。

 マシンのカラーリングだけでライダーの契約関係を判断することはできないのです。

(続きが書けるかな)

ヤマハ0W54その1を公開しました。

http://jfrmc.ganriki.net/ow54/ow54-1.html

 5~6月にブログで公開した内容をまとめ直したものです。
 他のマシンとは異なるまとめ方になりましたが、こんなまとめ方もいいのではないかと思います。趣味のことですから。

 ところで、0W48(1980年型並列4気筒)、0W53(1981年型並列4気筒)、0W60(1982年型スクエア4気筒)は現存していますが、0W54は今のところ現存しているという情報はありません。

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