レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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ヤマハは1975年に0W23(OW23)により500㏄タイトルを手にしましたが、1976年にはファクトリーとしての500㏄レース活動を休止、0W23をセコット(のチーム=ベネモト)に貸与しただけで、セコットはランキング19位に終わりました。
1976年12月、ヤマハは500㏄クラスへの本格復帰を発表、さらに翌年2月16日、袋井テストコースに報道陣が集められ、1977年型YZR500(0W35)、1977年型YZR750(0W31)お披露目が行われ、セコット、スティーブ・ベーカー、金谷秀夫、高井幾次郎による走行も行われました。
ヤマハニュースに記事があります(リンク)。
ホイールが「アルミキャスト」になっていますが、マグネシウムキャストの誤りでしょうね。で、ボア×ストロークが「56×50.5mm=497㏄」になっています。当時の雑誌にもこの数字が掲載されました(56×50.6と記載した雑誌もあり)。計算すると497.52㏄ですが、四捨五入ではなく小数点は切り捨てたのでしょう。
※最近ではヤマハはストローク50.6mmとしていますが・・・
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/machines/yzr500_0w35/
このように0W20、0W23(いずれも54×54mm)よりショートストローク化され、1-2気筒間、3-4気筒間のボアピッチも92→115mmと広げられたため、「TZ750、YZR750よりスリムな500㏄」という0W23の印象は消え、フェアリングを装着した姿はYZR750(0W31)とゼッケン、排気管を除き区別がつきにくくなりました。そのフェアリングもいかにも風洞実験から得られたような流麗な形になりましたが、この形が本当に空気抵抗が小さかったかどうかは疑問があります。
0W23からの他の変更点は次のとおりです。
〇吸気制御がピストン・リードバルブ→ピストンバルブ
〇キャブレターがパワージェット付になるとともに、2ストロークエンジン用としては珍しく吸気側エアファネルが装着された。
〇排気管の取り回しが変更された。
さて、1977年シーズンは前述のセコット、ベーカーが第1戦ベネズエラGPから、マシン貸与の体制でジアコモ・アゴスチーニが第2戦オーストリアGPから参戦することとなりました。
セコットは350㏄と500㏄の2クラスエントリーで、第1戦ベネズエラGPは350㏄で優勝、500㏄では4位で、500cc優勝はバリー・シーン(スズキ)、ベーカーは2位でした。
そして第2戦350㏄オーストリアGPで多重クラッシュが起き、セコットは骨折。その事故処理を巡り紛糾し、500㏄クラスはトップライダーがボイコットした中で行われました。セコットは負傷のために第3戦ドイツGP以降を欠場し、500㏄第8戦スエーデンGPで復帰したのですが、それまでの間、ヤマハ0W35はベーカー、アゴスチーニの2人だけの手に委ねられました。その第3戦~第7戦の5戦で、ベーカーは2位1回、3位2回、4位、5位が各1回、アゴスチーニは2位、5位、8位が各1回という成績で、その間にシーンが4勝、ハートク(市販スズキRG500)が1勝したのです。 PR

250/2C/2T/10150/2T2C/10160
このマシン、フレームは1975年以前のものに似ていますが、排気管が消音器付なので1976年後半以降に用いられたもののようです。消音器付で用いられたのが世界選手権なのかどうかはわかりませんが。
さて、ハーレーの250GPレーサー(RR250)は2ストローク水冷直列2気筒ピストンバルブ吸気ですから、ヤマハTZ250と同じです。ボア×ストロークはTZ250の54×54mmに対して56×50mmとされていますが、これがハーレーが1974~76年に250㏄クラスでヤマハに対して優位に立てた理由とは思えません。
もちろん、同一メカニズムだったとしても性能差は出ますが、他に考えられることとしては
(1)変速機内部のギアレシオを複数選択でき、しかもカセットミッションで素早く交換できた。TZ250の1速と6速のギア比の比(1速/6速)は2.37もあり、どこのコースでもある程度、対応はできたでしょうが、逆に各コースに適したギア比を選べませんでした。
※金谷秀夫氏は著書の中で「私(金谷)の時代はストレートで最高速を出せるような最終減速比を選んだが、最近のライダーはストレートで伸び切らなくても鈴鹿のS字を2速で走りやすい最終減速比にするような最終減速比の選び方をする」というようなことを書いていました。TZでは鈴鹿でベストなギア比を選べないことを示しています。
(2)ヤマハは1973年にTD3、TZ250とは全く別のファクトリーマシン0W17を登場させましたが、1974年以降、250㏄クラスでのレース活動を縮小しました。
1974年はファクトリーマシンは走らず、1975年はセコットに1974年の0W16(350㏄)ベースにした0W17を与え、Villaのタイトル獲得が濃厚になってから1975年型0W16(モノクロス)に0W17エンジンを搭載したマシンを与えましたが、時既に遅し。1976年以降、ヤマハ250㏄ファクトリーマシンは姿を見せませんでした。
(3)これ以外の市販レーサーTZ250に乗るライダーですが、現地の輸入元等の支援を受けるライダーはいましたが、何れも小規模なチームで、ハーレーの方がチーム体制が強力でレース毎のマシンセッティング等で優位に立っていた。
ぐらいでしょうか。もちろん、ライダーのVillaが安定した走りができるライダーだったことを忘れてはなりません。
Villaは1984年鈴鹿8時間耐久レースにドゥカティで出場しましたが、金曜日の車検の時に車検場に姿を見せ、その時にサインを頂戴したのが思い出です。そのVillaも2002年に故人になりました。

1975年スエーデンGPプラクティス時のWalter Villaのマシン。
モノショック後サスペンション、前後コニカルドラムです。で、一部を拡大した下写真で分るように通常のクッションユニット装着部がフレームに残っており、通常型フレームをモノショック仕様に改修したことが分ります。
この状態から、後輪のみアルミリム+ワイヤスポーク+ドラムブレーキにしたマシンもあります。
これはツインショック仕様。クッションユニットは1974年と同様にガーリング製。
他にも仕様違いのマシンがあります。
そして、1976年フィンランドGPでのVillaのマシン。
後輪のみディスクブレーキです。フレームは新型で、タンク下端形状も変わりました。ツインショック仕様ですが、クッションユニットはマルゾッキ製?
1976年ベルギーGPから騒音規制が行われるようになったので、排気管がサイレンサー付になっています。
1976年、他にビモータフレームも用いられました。
1975年になると新型ブレーキが用いられるようになります。カンパニョーロのキャストホイールに組み込まれたコニカルドラムブレーキです。
こちらのリンク先の写真をご覧ください。
https://www.southbayriders.com/forums/threads/90740/
ドラムが円錐状になっており、120度間隔で配されたパッドが油圧で押し付けられます。通常のドラムブレーキであれば、高温になるドラムのブレーキシュー接触面に風を豊富に当てることが難しいのに対して、コニカルドラムではそれが可能です。
メリットは・・・ディスクブレーキより軽量だったのでしょうか。
なお、全面的にコニカルドラムに変更されたわけではありません。
また、1975年にはヤマハのモノクロス風の後サスペンションも用いられるようになります。
1974年型のハーレー250は
(1)前後ドラムブレーキ
(2)前ダブルディスク+後ドラムブレーキ
(3)前シングルディスク+後ドラムブレーキ
の順に変化したようです。
(2)の状態。ライダーはVilla。
(3)の状態。左端の人物がWalter Villa。
この写真はおそらくオランダGPと思われますが、手前のマシンのブレーキキャリパー、ブレーキローターはヤマハ車のもののようです。奥のNo21のマシンも、(手前のマシンと異なり左フォークにキャリパーがありますが)同様です。No21は350㏄?