レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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今月号のバイカーズステーション誌にも、えのあきら氏の記事があります。
今回はPiovaticciの記事です。
で1975年50㏄クラスでのPiovaticciの記事ですが、「50㏄クラスでは、2位3位に各2度入賞でライダーズポイント2位となったのです。」
実際の戦績は次のとおりです。
優勝 1回(スェーデン)
2位 3回(ドイツ、イタリア、フィンランド)
3位 2回(オランダ、ベルギー)
4位 1回(スペイン)
(全8戦)
えのあきら氏はどんな資料を見たのか不思議です。
また、氏のイラストで、フェアリング右のゼッケン8の下のスポンサーのステッカーが「MARLIE」と読めますが、「MAHLE」が正解です。明らかに「H」を「R」と誤読してます。こちらの写真を参照。もちろん、MAHLEは有名なピストンの会社です。
http://www.elsberg-tuning.dk/piovaticci.html
ところで「Piovaticci」を「ピオバティ」と表記していますが、「ピオバティチ」とした方がよいと思います。ライダーのLazzariniはそう発音しているように聞こえます。
http://www.youtube.com/watch?v=bQyxE4WypRw (Lazzariniは右の人物)
1分50秒あたりから何回か発音しています。イタリア語で「ci」は「チ」です。
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今月号のバイカーズステーション誌に「1950年代のMVアグスタ125ccGPレーサー詳細写真集」という記事があります。で、69頁の記事ですが、
「~夢がかなって(125㏄)チャンピオンになったのは1952年だった。ところがこのころからドイツのNSUが力を増し、1953年はメーカータイトルを守ったものの1954年には両タイトルを奪われてしまう。しかし、MVは見事に巻き返に(原文ののまま)に成功し、1955~1960年まで125㏄クラスを守った」
1955年にMVが125㏄タイトルを奪還できた原因は、「NSUがファクトリーマシンを撤退させたから」です。そして、1955~1960年のうち、1957年はライダータイトル、メーカータイトルいずれもFB-モンディアルに奪われています。
ところで、今回紹介されたマシンですが、私はこの頃のレーサーについてあまり詳しくありません。ただ、68頁等の写真で、フレームのスイングアームピボット付近に「410」というフレーム番号のプレートが貼られていることがわかります。
1983年に開館し1991年頃に閉館した「フジ・モーターミュージアム」に展示されていたマシンのフレーム番号も同じ「410」でしたし、外観もあまり差が認められないので、これらは同じマシンだと思います。
また、69頁に「マリオ・コロンボの著書には」とありますが、この本だと思います。
http://www.amazon.co.jp/MV-Agusta-Mario-Colombo/dp/8879113879
私が購入したのは1992年ですが、気が向いたら確認します。
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バイカーズステーション誌に漫画家の「えのあきら」氏の連載記事があります。ちょっと古いですが、今月号の記事に
「(MVアグスタ)350㏄の6気筒は、強敵となった日本車に対抗すべく、多気筒化を試み、1968年に完成したマシ-ンでした。しかし、1969年に行われたレギュレーションの変更により350㏄は3気筒まで、と制限されてしまったため、レースに出場することなく消えた、幻のマシーンとなってしまいました」
とあります。
えのあきら氏は、350㏄の気筒数制限がされたのは1969年と思っています。そして、MVアグスタの350㏄4気筒レーサーが1971年の終盤に姿を現し、1972-74・76年に用いられたことも知らないのです(1972年は3気筒も用いられた)。3気筒に制限されているのなら4気筒がGPで走る訳はないですからね。
えのあきら氏は漫画家ですから、(原稿料をもらって書いた記事であっても)こんなもの、ということなのでしょうが、よく考えれば、この記事はえのあきら氏個人のブログに掲載されたのではなく、雑誌に掲載されたものですし、雑誌編集者がチェックすべきものです。
「漫画家だからこんなもの」ではなく、「雑誌だからこんなもの」と言うべきですね。
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今月号のカーグラフィック誌に宮川秀之氏の回想記があります。
「オーストラリア人のジャック・フィンドレイが、スズキ500㏄を駆って1973年のマン島TTレースに優勝したことは、二輪のロードレース世界選手権(グランプリ=GP)500㏄における日本車の初勝利になった」
1971年のアルスターGP500㏄クラスで、ジャック・フィンドレイがJADA-スズキに乗り優勝しています。このフレームは日本製ではないので、「日本車」ではないともいえますが、その次々のレース・スペインGP500㏄クラスでデイブ・シモンズがカワサキH1Rに乗り優勝しています。
「翌’74年シーズン、フィンドレイは~加えて750㏄フォーミュラにも参戦した。そこでも彼は抜群の速さで他を寄せ付けず、最後はスズキのマシーン同士のバトルとなって、英国スズキ・チームのバリー・シーンを抑えて優勝~」
1974年、ヤマハTZ750が市販されたのですが、結局、このマシンはF750の出場資格を失いました。このため、F-750の各レースの主催者はTZ750ライダーのエントリーを確保するため、F750シリーズから外れることを選択、結局、F750シリーズとして行われたのは3レースにとどまりました。この年のチャンピオンはジョン・ドッズ(ヤマハTZ350)で、フィンドレイはスズキに乗りランキング3位でした。
翌1975年、TZ750がF750出場資格を得ると、F750シリーズも9レースが開催され、スズキではなく、ヤマハTZ750に乗るフィンドレイがシーンを1点差(有効得点)で退けタイトルを手にしたのです。
つまり、宮川氏の記憶は1974年と1975年がごちゃ混ぜになってしまっています。
この様に、当事者であっても記憶はいい加減なものです。
先日公開したタイトルの記事
http://jfrmc.ganriki.net/zakkan/kousei/kousei12.htmですが、別冊モーターサイクリスト2013-7の記事をよく読むと、「ライター氏は「XR20」を知らないわけではなく、1975年のレースを走ったスズキ750をXR20と勘違いしている」のだと思うようになりました。
そのため、タイトルの記事を修正しています。まあ、当時の写真を全く確認せずに記事を書くのは、雑誌屋らしいといえばそうなのですが