TZ750がフォーミュラ750(F750)に適合しないというFIMの決定に対して、AMA(アメリカ)は次の様な見解を示した。
「F750とは最小限200台の生産・販売の条件を充たせばよいと解釈するメーカー及びスポーツ団体があっても当然であり、AMAもそのように解釈している。TZ750が不適合ならAMAが認可したダートトラックレーサーをベースにしたハーレー・ダビッドソンXR750も同じ理由で不適格になる。TZ750は1973年11月にMFJ(日本)が認可し、技術データを添えてFIM全メンバーに通知されたはずであり、これまでどこからも異議は申し立てられなかった。FIMはTZ750不適格によりデイトナ200に結果の取り消しの可能性もあるとほのめかしたが、AMAは今後のレースを国際フォーミュラの枠から外して開催することになるだろう。~今回のFIMの決定はF750レースの発展に大きなブレーキをかけることは間違いないだろう。」( オートバイ1974-6)
そもそもF750は、当時のアメリカで行われる見込みのなかった世界GPとは異なる新たな地位をF750に与えるべく、アメリカの750㏄レースの規定とイギリス等で行われていた750㏄レースの規定をすり合わせしたものであり、AMAはFIMに面子を潰されたのだ。
FIMの決定に反発したのはAMAだけでなかった。1974年のF750選手権はオンタリオ(アメリカ)を含む7レース行われるはずだったが、イモラ(イタリア)等の3レース(オンタリオを加え4レース)もF750の冠を外すことを選択、F750はスペイン、フィンランド、イギリスでの3レースしか行われなかった。しかも、ヤマハTZ350のジョン・ドッズがチャンピオン、同じくTZ350のパトリック・ポンスがランキング2位という750㏄選手権とは思えない結果に終わった。FIMの決定はF750終了の危機を招いたのである。
このため、1975年シーズンに向けFIMは、F750は一般市販車ベースでなくとも可とし、さらに最小生産台数を200台から25台とする規定改定を行い、ヤマハ以外の新型レーサーの登場を促すことになった。このようなことを朝令暮改というのだろう。
この事件について「ヤマハが本来、F750に出場できないTZ750を無理やり認定させようとした 」という意見もあるが、1973年のF750の状況を知らない、そしてTZ750登場によりヨーロッパ車の活躍の場がますます失われることを快く思わない者の意見としか思えない。
参考文献:Yamaha Racing Motorcycles: All Factory and Production Road-Racing Two-Strokes from 1955 to 1993 by Colin MacKellar, Crowood Press 1995。
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RACERS volume 48
で、ヤマハの市販レーサーTZ750について「1974年3月31日、FIM春期会議でTZ750がフォーミュラ750の規定に適合しないことが決定された。この混乱の原因はF750の「市販車」に関する曖昧なレギュレーションと市販レーサーTZ350の出場が1973年に認められていたことが原因であり、FIM自身の責任である」と書いていました。
この1974年の事件について、少し詳しく書いてみます。
1974年のFIMレギュレーション33条にスポーツ・プロダクション・レース及びF750の公認について規定されており、電装、消音器、ナンバープレートについては触れられているものの、これが一般のスポーツ ・プロダクションマシンだけに適用されるのか、F750マシンにも適用されるのかは曖昧だった。しかし、市販レーサー・ヤマハTZ350、ハーレーダビッドソンXR750(市販ダートトラックレーサーXR750のエンジン使用)はF750規定に適合するものとして1973年のF750レースに出場しており、1973年は実質的にF750のベースマシンの由来は一般市販車に限られない運用がなされていた。
そして、1973年11月にMFJ(日本)がTZ750を公認、テクニカルデータを添えてFIM全メンバーに通知され、1974年3月まで何の異議も出されなかった。
ところが、同月、FIM春期会議で一転する。西ドイツ側からF750の原形マシンの最小生産台数200台を2000台に引き上げようという提案がなされ※、その審議において、TZ750がF750の規定に合致しないとして、TZ750によるF750レース出場を禁止することが決定、その旨発表されたのである(1974年3月31日)。
※最小生産台数が引き上げることにより、TZ750等の市販レーサーは即座に(あるいは段階的に)F750不適合になる。
(続く)
参考
オートバイ誌1974-6、Yamaha Racing Motorcycles: All Factory and Production Road-Racing Two-Strokes from 1955 to 1993 by Colin MacKellar, Crowood Press 1995。
ヤマハ0W69について、ヤマハ 1984年 YZR700(0W69) - コミュニケーションプラザ | ヤマハ発動機(リンク) は、
「~翌84年にはスライド式YPVS、サブラジエーターなどを加えて中低速域の扱いやすさと耐久性を高め~」
としています。確かに現存する0W69のYPVS(ヤマハパワーバルブシステム)はスライド式です。
RACERS Volume 02(三栄書房2010)では
「'84年にはYPVSを鼓型からスライドバルブに変更したり」(79頁写真説明)
「YPVSのバルブをスライド式に変更したり~」(80頁本文)
と、1983年型0W69は鼓型バルブのYPVSだったとしています。
しかし、0W69のシリンダー、シリンダーヘッドは長いスタッドボルトでクランクケースに組付けられますが、鼓型パワーバルブではスライド式パワーバルブより幅(マシンの進行方法を縦として)が大きくスタッドボルトが邪魔です。
1981年に登場したスクエア4気筒・0W54、翌年の0W60の何れも共締ですが、そもそもスクエア4気筒で分離締あれば、スクエアに配列された各気筒の4気筒中央寄りの4つのナットの脱着ができません。といって、シリンダーの4隅の場所によって締付方法が異なればピストン焼付の原因になりかねません。
スクエア4気筒のYPVSは、YPVSの性能・特性以前の問題でスライド式にならざるを得ないのです。
ですから、ヤマハが「スライド式YPVS~を加えて」としているのは、1983年型0W69が鼓型YPVSだったことを意味するのではなく、1983年型0W69はYPVS無装着だったことを意味している可能性が高いと考えます。
2009年にコミュニケーションプラザに展示されていた0W69のマシン説明板では

0W69のベースとなったマシンを0W54と誤っていますが、1983年型では「~排気量をアップし、加速・最高速性能を向上('83年型0W69)」とし、YPVSについて書かれていないのはこのためでしょう。