レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
鈴鹿サーキットの設計者 (ganriki.net)
を部分公開しました。
そもそもサーキットの建設という土木工事の設計とは何か?が大きな論点になるとは思いますが、まずフーゲンホルツとホンダの接点についての中島氏の記事についてここで書きます。
検証1 はたしてモーカルク氏は実在の人物だったのか?|Takahiko Nakajima (note.com)
で「結果1 ロッテルダムにはホンダ販売店はなかった。ホンダを輸入するHonda Motors NV はロッテルダム近くにある都市Ridderkerkにある会社であったが、存在したのは1967年~1979年であった。1960年時点でホンダ代理店がオランダには存在していなかったのである」
としていますが、これは誤りです。「honda amsterdam 1959」で検索すればホンダ250が1959年にアムステルダムショーで展示されたこと、一定数がオランダに輸出されたことがわかります。
これを裏付けるのがホンダ広報誌「フライング 1959-7」の記述です。
1959年マン島TTレースのホンダが初出場しますが、羽田を出発する時に河島監督、ライダー(4人)と一緒だった整備員の関口氏、廣田氏は帰国時のチームの写真には写っていません。これについて河島監督は次のように語っています。
「私ども(河島監督、飯田(マネージャー)、ライダー)がロンドンを出ます11日の朝、オランダに先に参りました整備員の2人から電話がありまして~~オランダに参りました翌日にはデーラー関係の他に報道関係まで集めまして~」
関口氏、廣田氏はオランダに輸出したホンダ250の故障の対応ためオランダに赴いたものとされています(グランプリ・イラストレイテッド1987-3)。
中島氏の調査方法で得られた結果1が誤りだったことから、結果2の価値は低いものと判断せざるを得ません。