レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
ケニー・ロバーツが500CC世界GPに参戦した6年間のうち、1978-80は、黄色主体のいわゆるインターカラーで、1981-82がヤマハ・ファクトリーカラーというべき白地に赤ストライプ、1983年がマルボロカラーでした。
このことから、雑誌等では「ロバーツは1978-80年はヤマハのアメリカ現地法人Y.M.U.Sとの契約、1981-82年はヤマハ本社契約」と書かれた記事をよく見かけます。ヤマハのウェブサイトでも、1981年について「K・ロバーツが本社契約ライダーとして参戦し~」と1981年から本社契約となったかのように書かれています。
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/season1980_89/1981/
ライダースクラブ誌(枻出版)1980-4に次の記述があります。
(シーズン前に公開された1980年型YZR500について)「マシンは今のところファクトリーの純正カラーに塗られているが、今シーズン本社契約で走るのはロバーツひとりであり~昨シーズンまでと同じようにUSヤマハカラー(略)となれば、伝統のこのカラーリングはGPで見られなくなってしまうのだろうか」
さて、ケル・カラザースは24年前に次のように語っています。https://web.archive.org/web/20101221015640/http://superbikeplanet.com/2002-Sep/kelcarruthers1996.htm
”(注 1978年について)It was all financed by America (Yamaha). They paid me, they paid Kenny. They got me a budget to run the race team. Of course Kenny won the championship and the next year he won it again and then the factory more or less decided that they'd give up the factory team and let me run the factory team. So I ran the factory team and was contracted to Japan and basically I had Kenny as a rider and we had mechanics and one engineer from Japan.”
簡単にまとめると「1978、79はヤマハ(アメリカ)が資金を出し、1978、79とタイトルを手にしたが、1980年、ヤマハ(日本)はファクトリーチームの自社運営を諦め、ヤマハ(日本)はカラザースにファクトリーチームの運営を委託した」のです。
つまり、ライダー(ロバーツ)はヤマハ(日本)の契約で、チームはヤマハ(日本)と契約したカラザースチームだったのです。これが、ロバーツがY.M.U.Sの契約でないにも関わらず1980年のロバーツのマシンのカラーリングがインターカラーのままだった理由です。
マシンのカラーリングだけでライダーの契約関係を判断することはできないのです。