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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ホンダRC211Vエンジン諸元

 2002年型ホンダRC211Vのエンジン諸元(プロトタイプ、2002年開幕時)がRACERS vol 13(2012三栄書房)に掲載されていましたが、2002~2006年型RC211Vエンジンの詳細諸元がこちらにありました。

https://global.honda/jp/tech/motorsports/MotoGP/RC211V_part03/


 主な諸元を一覧表に整理してみました。

 後バンクシリンダーのボアピッチが大きく、ここだけ見れば無駄ですが、V型5気筒をバランサーシャフトなしで成立させるためのレイアウトの必然です。
 さて、当時のF1エンジン(3リッターV型10気筒)と比べると吸ストローク/ボア比も大きく、最高出力時回転数も(気筒あたり排気量差を考慮すれば)抑え気味です。その意味ではRC211VエンジンはV型5気筒という以外は常識的なエンジンといえるかもしれません。もちろん、レーシングエンジンは最高出力品評会ではないので、その価値はこれらの数値で表されるもの以外の要素が大きいのです。
    
・・・・・・・・・・・・・・・・
 太字は私が計算(単純な足し算を含む)したものです。

 なお、最高出力(max power)について、元記事で

「10月にHRCではエンジンテストベンチの校正を行い、同じエンジンでも校正後は約3 kWの数値低下が確認された。上記の各モデルの最高出力と最大トルクだが、NV5C以降のものはベンチ校正後の数値である。」

 とあるので、2002、2003年型については元の出力に185/188を乗じた数字をkW cor・ PS cor欄に記載しました。bmep(正味平均有効圧)の計算はこの補正後の出力を用いて計算しました。


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奇数気筒のV型内燃機関

 ホンダRC211VのV型5気筒レイアウトに関する特許出願が2001年ですので、特許権消滅していると思っていましたが、特許年金未納により、申請から20年を待たずに消滅していました。

 2006年がRC211Vの最後のシーズンでしたし、RC211Vは市販品ではないので、この特許を維持する必要もないと判断されたのでしょう。

 奇数気筒の不等間隔点火エンジンの需要が二輪以外にあるとも思えませんし。

4ストロークV型3気筒エンジン

ホンダがコンセプトモデルを発表しました。
https://mc-web.jp/motorcycle/152208/

 直列3気筒であれば240度等間隔点火で1次慣性力が釣合い、偶力はバランサーシャフト1本で打ち消すことができます。

 しかし、75度V型3気筒240度等間隔点火では1次慣性力は釣合いません。
 ただ、単気筒エンジンのようにクランクシャフトで1次慣性力が釣り合っていなくてもバランサーシャフトが1本あれば、ある程度釣合わせることができます。

 ですから、V型3気筒であっても240度等間隔点火である可能性はありますが、私は

 195度-285度-240度の可能性がある

 と思います。





1959年、ホンダチームはマン島に行ってマウンテンコースではなくクリプスコースが使われることを知ったって?

マン島クリプスコース (ganriki.net)

の末尾に次の文を追加しました。
・・・・・・・・・・・
 「ホンダオートバイレース史」(中沖満、三樹書房2016)
 143頁「(1959年)ホンダは~ジェフ・デュークを丁重に招いて試乗してもらう」
 151頁「(1959年)~日本で初めてのGPマシンを「まあいいだろう、グッドだ」と言ったデュークの言葉を単なる社交辞令として受け取るべきではなかった。それがたとえ1500メートルのストレートを走っただけで「マン島TTへ出るのだ」という日本人を「何を言っているんだ!」とデュークがなかば呆れて言ったとしてもだった」
 
 デュークの来日は1960年4月なのに、本書では1959年のことになっている。そして、グランプリ・イラストレイテッド1987-10に中沖満による次の記事がある。これはホンダの社員ライダーで1960年にマン島TTレース等に出場した島崎貞夫(故人)へのインタビューを元にしたもの(A~Cは私が分割したもの)。
 
A マン島用の125㏄が完成したとき、ホンダはジェフ・デュークを丁重に荒川に招き、試乗とアドバイスを求め、それに対しデュークは、「まァいいだろう」と答えた
B 僅か1,500mの直線を朝から晩まで走ることで、マシーンとライダーを鍛え、それだけでマン島に行く、という無謀さに充分な社交辞令をもって答えながら
C デュークは『1冊の教科書』(注:マウンテンコースのガイドブック)を渡した。(島崎氏)「これがそうです。私の20代の宝物のひとつです」(日本語に訳したもの)    
 
 A、Bは1959年TTレース出場の前のことであり、ここでも中沖はデュークの来日を1959年と勘違いし、「ホンダチームはクリプスコースが使用される1959年マン島TTの前にデュークの教科書(マウンテンコースのガイドブック)を入手しライダーが勉強した」と読める記事を作成したのだろう。

 そして、この誤った内容が英訳されOxleyに伝えられ、Oxleyがさらに「ホンダチームは1959年にマン島に行って初めてクリプスコースが用いられることを知った」を加え記事にしたのだろうか?


 なお、私は、1960年4月にホンダチームがデュークの教科書をデューク自身から入手したのかどうかすら疑わしいと考えている。




ホンダオートバイレース史の公開校正

公開校正に ホンダオートバイレース史 (ganriki.net)

を追加しました。

 ライターの中沖氏、ライダースクラブ誌で「鉄と心とふれあいと」を連載していたころはファンだったのですが、グランプリ・イラストレイテッド誌での元GP関係者へのインタビュー記事であまり信用できないと思うようになりました。特に1966年日本GP250㏄での長谷川弘選手の優勝を1967年かのように作文した記事はひどかった。

 というわけで、ホンダオートバイレース史も「期待に違わず」誤りが多く見られます。レース平均速度、ラップ速度の誤りが多いのはともかく、次のような誤りは・・・


258頁「(マイク・ヘイルウッドの父親)契約した(第3戦)フランスGPでは、いちばん調子の良いRC162にマイクを乗せろと言い張り 
258-259頁「(ヘイルウッドはフランスGPで)初めて乗るRC162を乗りこなし、フィリス、ヘイルウッド、高橋国光のワンツースリー・フィニッシュ~」

 ヘイルウッドが初めてホンダ250に乗ったのは第2戦西ドイツでマシンはRC161でした。続く第3戦フランスでもRC161に乗り2位、そしてRC162が与えられた第4戦マン島で優勝しましたが、中沖氏は当時のレポートも写真も確認しないだけでなく、さらに作文して誤りを増幅させているのです。

 このような中沖氏(故人)の記事をそのまま出版しようという出版社には事実を伝えようという気概は全く感じられませんが、それでも出版してくれるだけましと思わないといけないのかもしれません。






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