RACERS Volume 42(リンク)では、このスタジオ写真
と異なる、後サスペンションアームが丸パイプ(上写真は角パイプ)で、後排気管が車体右側に取りまわされているマシン(1975年オランダGP)を「1976年型:601B」としていました。
ライター氏のFACEBOOKでは、リンク先のこの写真のマシンを1976年2型としています。
しかし、この写真は1975年シーズン前のものです。ほぼ同じアングル、背景の写真がモーターサイクリスト誌1975-5(1975年4月1日発売)の表紙にあります。「日本の古本屋」(リンク)をご覧ください。
1975年シーズン前(直前なのかどうかは分りませんが)に撮影されたマシンである以上、この写真のマシンを1976年型とすることはできません。このマシンも1975年型です。
http://jfrmc.tou3.com/%EF%BD%8A%EF%BD%86%EF%BD%92%EF%BD%8D%EF%BD%83%E5%86%85%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B/nr500%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%96%E6%8C%9F%E8%A7%92
で、RACERS Volume 54と、「ホンダNRストーリー」(1992年山海堂)の食い違いについて書きました。Volume54と55に掲載されたバルブ挟角55度ヘッドの写真等からすると、NR500のバルブ挟角に関するRACERSの記述に誤りはないという結論になりました。
一方、ホンダNRストーリーの記述も誤りというわけではなく、15頁と54・55頁の記述に時期が書いていないために、私が誤解したという結論です。
「K0→初期0Xの段階では、吸排気バルブの挟角は65°に設定されていた~後に55°ヘッドが製作されることになる」(15頁)。
「デビュー戦イギリスGPとフランスGPの2戦を終えたNRメンバーは、早速NR500に生じた問題点の対策を開始した」
「シリンダーヘッドに関しては~バルブ挟角が55°から~40°に変更され、65°のときには110PSであった出力が55°のときには113PSに上がり、40°ではさらにどんどん向上していったのである」
「'79年末の時点では、エンジン出力もコンスタントに115PSを上回るようになったのである」(以上、54~55頁)
これらの記述からすると「65度ヘッドのマシンがイギリス・フランスに送られる一方、日本では55度ヘッドの製作が進行しており、帰国後に55度ヘッドのマシンがテストされ、その前後に40度ヘッドのエンジンの設計開始し、1979年末には40度ヘッドエンジンがテストされた。」ように思えます。
RACERS Volume 54はNR500を取り上げています。
http://jfrmc.ganriki.net/zakkan/kaigainowadai.htm
で書いたが、NR500がデビューした1979年イギリスGPがNHKの「海外の話題」という10分番組で少し取り上げられたことからわかるように、これは二輪の世界を超えた大ニュースだった。
1979年6月に公開されたNRを伝える雑誌記事で、すでに楕円(長円)ピストンであることが推測されており、これがうまくいくなら出力的に2ストロークに対抗できるのではないかと期待したことを思いだす。あれから40年か。
NRについては
http://jfrmc.ganriki.net/zatu/nr/NR.html
にも少し書いていましたが、いろいろ思うこともあるので、どうしようか思案中です。
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で、NRとは関係ないのですが、本号14頁に「4スト最後の砦であった
3気筒のMVアグスタ 500-3と渡り合えたのは’75年までで」とあります。
1968年から1972年までMV3気筒の天下だったのですが、1973年にヤマハ500が登場すると、500㏄3気筒に加え350㏄のスケールアップ版の433.5cc、さらにフルスケール500㏄が投入されます。ただ、アゴスチーニは3気筒に乗り続け、リードは当初4気筒に乗っていましたが、ヤマハが(イタリアGP250㏄でのサーリネンの事故死により)参戦を休止するとリードも3気筒に乗ります。
1974年、アゴスチーニはヤマハに移籍し、リード、ボネラの2人体制になり、4気筒が用いられました。ボネラが世界選手権以外のレースで3気筒に乗った写真はありますが。
そして1975年は、もちろん4気筒のみが用いられました。