レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
1979年の全日本ロードレース選手権 - Wikipedia で、1979年の国際A750各レースの勝者を次のとおりとしています。
第9戦勝者の金谷秀夫にが付いています。これは「混走のフォーミュラ・リブレ(FL)、全日本選手権ポイントの対象外」ということですが、誤りです。金谷が乗ったYZR750(0W31)はFIM・F750公認車両であるヤマハTZ750のエンジンがベースでフレームがTZ750と異なりますが、国際A750ではフレーム変更が認められているので得点対象です。
また、第3戦筑波の750㏄出場はスズキの2人(FL)だけでしたが、総合5、6位(750㏄1、2位)でした。
次にWikipediaにあるランキング表。
例によって得点対象でない入賞の記載がない等の問題があるため、修正してみました。
1979年の国際A750
当時のライダースクラブ誌、モトライダー誌を参考にしました。
筑波のレースでの公認車両等による出場は全くありません。第2戦鈴鹿、第7戦菅生の出場者は上表のとおりです。第6戦・第9戦の鈴鹿の公認車両等による出場者は上表以外に何人かいます。
なお、河崎裕之の得点「13」はMFJの誤りです。河崎が乗ったスズキRGB500(XR27)はMFJ公認車両でもFIM・F750公認車両でもないのでMFJ競技規則上は明らかに得点対象ではないのですが、「日本GPは国際格式のためFIM・F750(1979年はマシンの由来制限なし)と同様に取り扱う」というMFJ競技規則を無視した理由で得点対象としたようです。
当然、日本GPで4位以下だったライダーの得点も誤りです。
さて、スズキファクトリーマシンが8戦中5戦で走ったことは評価すべきだと思いますが、それにしても750㏄クラスの出場者があまりにも少なく、「これが選手権ですか?」と言いたくなるようなものでした。
これが1980年のヤマハTZ500、スズキRG500(1981年型から公認車両)の市販以降、台数が増加していきます。
台数が増加した要因として、月刊ライダースクラブの発刊もあると思います。それまで、雑誌の国内レース記事は少なかったのですが、ライダースクラブは全日本選手権の記事もあり、1980年からさらに頁数も増加しました。そのためにライダー、チームへの援助者も増加したのではないでしょうか。私が「くるまのオオス」、「タカハシタイヤサービス」を知ったのもこの頃です。