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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ヤマハ0W35(4) 0W35Kのクランクケース

 この投稿以降では以下、0W35のパワーバルブ無仕様を単に「0W35」、0W35のパワーバルブ仕様を「0W35K」と記します。
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 1978年型0W35Kのシリンダー/シリンダーヘッドのクランクケースへの組付け方は1977年型0W35と異なります。
これは1978年型0W35Kのシーズン前公表写真のシリンダー部を拡大したもの。
 
 黄色矢印の先にナットが見えます。シリンダー前側が分離締めになっています。シリンダー後側は共締めのままです。
 シリンダーにパワーバルブを収めるため、そして各気筒のパワーバルブを連結するためと考えられます。
(1978年実戦型0W35Kについては次回以降)

 また、クランクケースのクランクセンターの上部形状が1977年型0W35(下)と異なり、クランクケースの型が変更されていることが分ります。


 これは1978年第1戦ベネズエラGPでのロバーツの0W35です。片山も第1戦は0W35に乗り(両者とも第2戦以降は0W35Kに乗りました)、セコットが第1戦から0W35Kに乗りました。
  
 パワーバルブ無とはいえ、クランクケースは1977年型0W35とは異なり、1978年型0W35Kと同型のように見えます。あるいは1977年型0W35Kのものかもしれません。

 シリンダーは1977年型0W35と同様、2気筒一体で共締めですが、(シリンダーヘッド形状が変わったので分りにくいですが)シリンダーヘッドのナットの位置は、後側は1977年型とほぼ同じ位置で、前側のナットは1977年型と異なりシリンダーの隅にあります。つまり、1978年型のクランクケースの前側のスタッドボルトが収まる位置が1977年型より外側になっているようです。

 これは、当初、1978年型0W35Kシリンダー後側は共締めのまま、シリンダー前側が分離締めになっており、そのために前側のスタッドの位置が外側にずれたためと考えられます。前後共締めのこの0W35も同じクランクケースを使用しているため、シリンダー前側の共締め用スタッドボルトの位置がシリンダー隅にあると思われます(※1)。


 1977年型0W35Kでも、パワーバルブをシリンダーに収めるためにシリンダー/シリンダーヘッドの前側は分離締めで、クランクケースのシリンダー前側スタッドボルト位置が1977年型0W35とは異なったはずです(※2)。

 ですから、1977年に初めてGPサーキットに持ち込まれた0W35Kが、単に0W35にパワーバルブ仕様シリンダー等のパーツが装着され0W35Kに改修されたものだったとは思えません

※1 ボアピッチが小さく掃気ポート断面積が小さい0W23では共締め用スタッドボルトがシリンダーの隅にあります。
※2 1977年型0W35Kエンジンはスライド(ギロチン)型バルブではなく鼓型バルブだったことを前提にしています。

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ヤマハ0W35(3)

 ライディングスポーツ誌1989-4の記事は物語風にまとめられているので、どこまでがヤマハ関係者の証言(あるいは記録)なのか、ライター氏の想像なのかがよく分りません。「フランスGP終了後~YZR500用のパワーバルブ一式が、機内持ち込み手荷物として、ひとりのエンジニアとともにヨーロッパに渡った」とありますが、1977年型0W35をパワーバルブ無仕様からパワーバルブ有仕様にするためには、パワーバルブ付きシリンダー、パワーバルブ作動用サーボモーター、CDIユニット(パワーバルブ作動対応)等だけでは済まないと思われます。
 ※1977年のパワーバルブ仕様はスライド(ギロチン)型バルブではなく鼓型バルブだったことを前提にしています。


 これはTZ750のクランクケースで、スタッドボルトがクランクケースに刺さっています。これにシリンダーを通してシリンダーヘッドを被せ、袋ナットで締め付けます。いわゆる「共締め」です。


  これは1977年型0W35の公表写真。TZ750と同様に共締めで、赤い袋ナットが見えます。


 このスタッドボルトがシリンダーを通る部分が邪魔になり、シリンダーに鼓型パワーバルブを装着できません。仮に装着できたとしても、スタッドボルトが邪魔になり、各シリンダーのパワーバルブを連結できません。
 

ヤマハ0W35(2)

 1977年シーズン中、0W35にヤマハ・パワーバルブ仕様のエンジンが搭載されました。

 2003年、ヤマハ・コミュニケーションプラザでの特別展
https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/exhibition/archives/2003_3/006/

「YZR500の’77年後期のOW35Kでロードレーサーに初採用され」とあります。

また、会場配布のパンフレットにも記述があります。
https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/exhibition/archives/2003_3/pdf/yzr500_brochure-j.pdf

 こちらの公式ブログでは、1977年フィンランドGPでベールを脱いだとされています。
https://www.yamaha-motor.co.jp/mc/yamaha-motor-life/2011/11/ypvs.html

  ライディングスポーツ誌1989-4にパワーバルブ付ヤマハ500の登場の経緯についての詳しい記述があり、これによれば1977年オランダGPがデビュー戦、そして、ベルギーGP、スペインGPでは優勝できなかったが、続くフィンランドGPでジョニー・セコットの手により優勝したとされています。もちろん「スペインGP」はスエーデンGPの誤りです。
 
 このライディングスポーツ誌1989-4中、オランダGP以降、ヤマハがマシンにカバー(記事ではシート)を被せエンジンの正体が分らないようにしていたとのことです。 

 MOTOCOURSE1977-78には「(プラクティスのヤマハ勢の低順位・低タイムについて)These disappointing practice times made even bigger mockery of the new Yamaha tactics of covering their machines by blankets to keep away prying eyes.」とあり、ヤマハがマシンをカバーしてたことが記述されています。もちろんMOTOCOURSEではパワーバルブについての言及はありません。

  オランダGPでのベーカーのマシンで、カバーが少し外れています。ただ、このマシンのエンジンはパワーバルブ仕様ではないようです。

 なお、このマシン、フェアリングに「YAMAHA」のロゴもなく、ゼッケン下のスポンサーステッカーも見当たらないことから、スペアフェアリングを装着したか、あるいは新たに持ち込まれたマシンと思われますし、プラクティスの初期の段階でしょう。

 これもオランダGPでのベーカーのマシン。これがパワーバルブ仕様のエンジンと思われます。

 このマシンがレースを走ったようです。

 では、パワーバルブ仕様のエンジンがGPの現場に初めて持ち込まれたのオランダGPが初めてなのでしょうか?
 

ヤマハ0W35(OW35)

 ヤマハは1975年に0W23(OW23)により500㏄タイトルを手にしましたが、1976年にはファクトリーとしての500㏄レース活動を休止、0W23をセコット(のチーム=ベネモト)に貸与しただけで、セコットはランキング19位に終わりました。

 1976年12月、ヤマハは500㏄クラスへの本格復帰を発表、さらに翌年2月16日、袋井テストコースに報道陣が集められ、1977年型YZR500(0W35)、1977年型YZR750(0W31)お披露目が行われ、セコット、スティーブ・ベーカー、金谷秀夫、高井幾次郎による走行も行われました。
ヤマハニュースに記事があります(リンク)

 ホイールが「アルミキャスト」になっていますが、マグネシウムキャストの誤りでしょうね。で、ボア×ストロークが「56×50.5mm=497㏄」になっています。当時の雑誌にもこの数字が掲載されました(56×50.6と記載した雑誌もあり)。計算すると497.52㏄ですが、四捨五入ではなく小数点は切り捨てたのでしょう。

※最近ではヤマハはストローク50.6mmとしていますが・・・
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/machines/yzr500_0w35/

 このように0W20、0W23(いずれも54×54mm)よりショートストローク化され、1-2気筒間、3-4気筒間のボアピッチも92→115mmと広げられたため、「TZ750、YZR750よりスリムな500㏄」という0W23の印象は消え、フェアリングを装着した姿はYZR750(0W31)とゼッケン、排気管を除き区別がつきにくくなりました。そのフェアリングもいかにも風洞実験から得られたような流麗な形になりましたが、この形が本当に空気抵抗が小さかったかどうかは疑問があります。

 0W23からの他の変更点は次のとおりです。
〇吸気制御がピストン・リードバルブ→ピストンバルブ
〇キャブレターがパワージェット付になるとともに、2ストロークエンジン用としては珍しく吸気側エアファネルが装着された。
〇排気管の取り回しが変更された。

 さて、1977年シーズンは前述のセコット、ベーカーが第1戦ベネズエラGPから、マシン貸与の体制でジアコモ・アゴスチーニが第2戦オーストリアGPから参戦することとなりました。
 
 セコットは350㏄と500㏄の2クラスエントリーで、第1戦ベネズエラGPは350㏄で優勝、500㏄では4位で、500cc優勝はバリー・シーン(スズキ)、ベーカーは2位でした。
 そして第2戦350㏄オーストリアGPで多重クラッシュが起き、セコットは骨折。その事故処理を巡り紛糾し、500㏄クラスはトップライダーがボイコットした中で行われました。セコットは負傷のために第3戦ドイツGP以降を欠場し、500㏄第8戦スエーデンGPで復帰したのですが、それまでの間、ヤマハ0W35はベーカー、アゴスチーニの2人だけの手に委ねられました。その第3戦~第7戦の5戦で、ベーカーは2位1回、3位2回、4位、5位が各1回、アゴスチーニは2位、5位、8位が各1回という成績で、その間にシーンが4勝、ハートク(市販スズキRG500)が1勝したのです。

ハーレーダビッドソン250ccGPレーサー(7)


250/2C/2T/10150/2T2C/10160


 このマシン、フレームは1975年以前のものに似ていますが、排気管が消音器付なので1976年後半以降に用いられたもののようです。消音器付で用いられたのが世界選手権なのかどうかはわかりませんが。

 さて、ハーレーの250GPレーサー(RR250)は2ストローク水冷直列2気筒ピストンバルブ吸気ですから、ヤマハTZ250と同じです。ボア×ストロークはTZ250の54×54mmに対して56×50mmとされていますが、これがハーレーが1974~76年に250㏄クラスでヤマハに対して優位に立てた理由とは思えません。

 もちろん、同一メカニズムだったとしても性能差は出ますが、他に考えられることとしては

(1)変速機内部のギアレシオを複数選択でき、しかもカセットミッションで素早く交換できた。TZ250の1速と6速のギア比の比(1速/6速)は2.37もあり、どこのコースでもある程度、対応はできたでしょうが、逆に各コースに適したギア比を選べませんでした。

※金谷秀夫氏は著書の中で「私(金谷)の時代はストレートで最高速を出せるような最終減速比を選んだが、最近のライダーはストレートで伸び切らなくても鈴鹿のS字を2速で走りやすい最終減速比にするような最終減速比の選び方をする」というようなことを書いていました。TZでは鈴鹿でベストなギア比を選べないことを示しています。

(2)ヤマハは1973年にTD3、TZ250とは全く別のファクトリーマシン0W17を登場させましたが、1974年以降、250㏄クラスでのレース活動を縮小しました。
 1974年はファクトリーマシンは走らず、1975年はセコットに1974年の0W16(350㏄)ベースにした0W17を与え、Villaのタイトル獲得が濃厚になってから1975年型0W16(モノクロス)に0W17エンジンを搭載したマシンを与えましたが、時既に遅し。1976年以降、ヤマハ250㏄ファクトリーマシンは姿を見せませんでした。


(3)これ以外の市販レーサーTZ250に乗るライダーですが、現地の輸入元等の支援を受けるライダーはいましたが、何れも小規模なチームで、ハーレーの方がチーム体制が強力でレース毎のマシンセッティング等で優位に立っていた。

 ぐらいでしょうか。もちろん、ライダーのVillaが安定した走りができるライダーだったことを忘れてはなりません。

 Villaは1984年鈴鹿8時間耐久レースにドゥカティで出場しましたが、金曜日の車検の時に車検場に姿を見せ、その時にサインを頂戴したのが思い出です。そのVillaも2002年に故人になりました。

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