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JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

現代ミリタリー・ロジスティクス入門

という本を読みました。軍事というと、どうしても前線等で使われる兵器に目が行きますが、それらは、それらを支える兵站があってこそで、その兵站についてまとめられた本です。なかなかこういう視点の本は少ないので、非常に興味深いものとなっています。
著者のウェブサイトはこちら。
http://www.kojii.net/

ただ、私としては少し気になる記事もあります。著者は、一部の技術についてはあまり詳しくないようなのです。

147頁
「~ガソリン・エンジンではプラグで点火する前に勝手に爆発されては困る。その現象をノッキングというが、ノッキングを防ぐために、ガソリンについてはアンチノック性が求められる」

ノッキングとプレイグニッションを混同しています。

147~148頁
「(オクタン価は)ひらたくいえば、イソオクタンだけで構成する標準燃料と同等のアンチノック性を示したガソリンのオクタン価が100ということである。~いずれにしても絶対量ではなく比率で示すのだから、試料となるガソリンのオクタン価が100を超えることはあり得ないはずなのだ」

 ある燃料のアンチノック性がイソオクタンを上回っている場合でも、計算上、オクタン価を求められます。その燃料とn-ヘプタン(オクタン価=ゼロ)を1:1で混合して、混合燃料のオクタン価が60なら、ある燃料のオクタン価は120ということになります。
 もちろん、こんな方法で測定しているわけではありませんが、オクタン価100超であっても、なんらかの方法でオクタン価の測定は可能です。詳しくはこちらを。
http://kikakurui.com/k2/K2280-1996-02.html

「というわけで、「オクタン価」として100を超える数字が出てきた場合、それは「グレード」あるいは「ノック・レーティング」の値と混同されている可能性が高い。前述の「表3.10」にある「91/98」や「100/130」がグレードを示す値だ。同じ表の中にノック・レーティングも出てくる」

 この表中のノックレーティング(リーン)は航空法、同(リッチ)は過給法によるオクタン価です。ただし、100以上の数値はパフォーマンスナンバー(出力価)です。
 この本ではオクタン価についてリサーチ法とモーター法の2種を示していますが、航空法、過給法を示していません。
 
148頁
「オクタン価は高いほど良いが、セタン価は低いほど良い、という違いがある。紛らわしいことに、セタン価とは別に燃料の密度と沸点から算出するセタン指数というものがあり~」

 セタン価も、高いほど良いはずです。
 また、「沸点」ではなく、10容量%留出温度、50容量%留出温度、90容量%留出温度です
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サブマリン707

昔、読んでいた漫画です。この続編というべき漫画に「青の6号」があります。何回かの父の転勤・引越の際に全て失っていましたが、数か月前、ある古書店できれいな「青の6号」全3巻中、1、2巻セットを800円で売っていたので、つい購入してしまいました。その後、第3巻、そしてサブマリン707も全6巻を入手。
昔はこの漫画のとりこになっており、プラモデルもよく作りました。大人になって読むと、おかしなところがたくさんありますが・・・私が理科系の道に進む、一つのきっかけを与えてくれたと思っています。

これは全6巻中1-4巻。


実は数年前のある機会から自衛隊の基地等に行くようになっており、このことが、この漫画に再び興味をもった理由かもしれません。

これは海上自衛隊の「ひゅうが」の一部。






マイ・ワンダフル・サーキット

出典はこちら
http://www.honda.co.jp/riki-san/talk14/
「一方Hondaでも、この「1958年」にはちょとした事件があった。イタリアから、本場ものの「ロードレーサー」が、社内にやってきたのである。その名は「モンディアル」 このメイクスは1954年頃からGPレースに参戦しはじめ、瞬く間にトップ・コンテンダーにのし上がった。そして、57年のマン島TTレースでは、125ccと250ccの両クラスで勝利していた。 」

 125㏄クラスの1949~1951年のチャンピオンマシンは、FB-モンディアルなのですが・・・

続いて、出典はこちら
http://www.honda.co.jp/riki-san/talk15/


「これにつづけて、年が明けるとすぐに(1959年1月)、Hondaはマン島にTTレース参戦のための視察団を派遣する~
「ただねえ、この調査もチョンボだらけでさ!(笑)」   
リキさんは、笑って付け加えた。 
その最大のミステークは、この調査団がリサーチの対象としたのが、マン島の「マウンテン・コース」だったことである。   
たしかにTTレースは、この有名な公道コースで行なわれる。しかし、このときHondaがTTレース初参戦でターゲットにしていたのは125ccクラスであり、このクラスは、もうひとつのマン島のレーシング・コース(公道)である、短い「クリプス・コース」でずっと行なわれてきたのだ」

 クリプスコースは、125㏄、サイドカーは1954年から、250㏄クラスは1955年から用いられたが、まさかホンダが自社の出場するクラスのコースではなく、350、500㏄クラスのコースを調査するチョンボをしたとは思えないが・・・「1960年から全クラスマウンテンコースになって、1959年のクリプスコースの経験が無駄になった」ことと勘違いしているのでは。

1 タルキニオ・プロヴィーニ MVアグスタ  10周 118.5km/h
  2 ルイジ・タベリ           MZ          10周 117.8km/h
  3 マイク・ヘイルウッド     ドゥカティ  10周 116.2km/h
  4 フューグナー             MZ          10周 115.7km/h
  5 カルロ・ウッビアリ       MVアグスタ  10周 114.6km/h
  6 谷口尚巳                 Honda RC142 10周 109.9km/h

1位の平均スピードは74.06mph(マイル毎時)なので、1マイルを1.60934kmで計算すると119.2km/h、1マイル1.6kmとすると118.5km/hで、上は後者の計算と思われます。
ところが3位以下は、1マイル1.60934kmで計算したようです
2位の速度はどう間違ったのか分りませんが、間違い。正解は、1マイル1.60934kmで計算すると119.0km/hで、1マイル1.6kmとすると118.3km/h。

1961年の出来事

出典はこちらです。
マイ・ワンダフル・サーキットⅡ 鈴鹿から世界へ
http://www.f1-stinger.com/special/mwc/chapter02/talk18/

――デグナー選手は、当時の東ドイツから亡命という大事件を引き起こした後に、スズキのワークスライダーになったんですよね?

「それは1961年の9月、西ドイツで行なわれたGPのときのことでした。東独のMZに乗っていたデグナーが行方不明だ!というニュースが世界を駆け巡りましてね。日本では“デグナー”といわれても一般的な知名度はほとんどありませんでしたが、当時の欧米ではセンセーショナルな話題でした」
 
 西ドイツGPは5月開催で、東ドイツGPは7月開催。9月に開催されたのはイタリアGP、スェーデンGP。デグナーが亡命したのはスェーデンGP。こちらを参照。
http://www.iom1960.com/other/degner.html

――“MZ乗り”の名手、あの天才ライダーが“消えた”?

「略」

――いわゆる東西冷戦の真っ只中、“ベルリンの壁”が作られたのもこの1961年で、この年の10月には“キューバ危機”も起こっている。そんな時期の亡命というのは、よほどの決意ですよね。

 いわゆる「キューバ危機」は1961年ではなく1962年10月

「略」

――あ、そういえば《鈴鹿》の「デグナー・カーブ」って!?

「そうです、このセニア、50ccクラス10周でのレースでのことでした。前日の豪雨がウソのような快晴。スタートして、1~2周をトップで独走していたデグナー選手でしたが、S字コーナーから180Rの左コーナーを抜けた先、80Rの右コーナーで転倒しましてね~名手が転んだ!として、そのコーナーが“デグナーカーブ”と呼ばれるようになり、今日に至っているわけです」

 デグナーが転倒したのは4周目。

  
 まあ、キューバ危機の年を間違えるのは、少し恥ずかしいと思います。

風まかせ No40

タイトルの雑誌に、ビル・アイビーの記事があります。
例によって間違いが多いですね。購入しなかったので、記憶を頼りに書くと、

「1967年第3戦フランスGP250㏄」という写真説明は「1967年第4戦マン島TT250㏄」の誤り。
  
 アイビーについて「小さな巨人」、「ジャイアントキラー」と呼ばれたとあるが、初耳。高井幾次郎の「リトルジャイアント」と勘違いしているのでは。

 1966年のスズキ125㏄マシンをRT66-Ⅱとしているが、RT67-Ⅱ(スチュアート・グレアム用)、RT67-Ⅲ(片山義美用)の誤り。
 

 1967年125㏄のスズキチームにアンシャイトがいたようになっているが誤り。アンシャイトは50㏄のみの契約で、125㏄クラスは前年から貸与されているRT66を使用し、個人出場でドイツGP、イタリアGPのみに出場した。

 1968年の250㏄クラスとチャンピオン決定方法は「二者が1、2位に入賞したレースのレースタイムの合計で決定」ではなく、「二者が同時に入賞したレースのレースタイムの合計」の誤り。1968年250㏄、1972年50㏄クラス、いずれも結果的に「二者が1、2位に入賞したレース~」になっただけ。1953年125㏄のメーカータイトルは、二社が1-3位に入賞したレースのレースタイムもカウントされている。

 
 気筒数制限等が行われたのは、125㏄、250㏄については1969年ではなく1970年から、350㏄、500㏄については1974年から。

アイビーが亡くなったのは、「1969年東ドイツGP350㏄レース当日のプラクティスでの事故によるもので、7月13日」ではなく、「1969年東ドイツGPレース前日のプラクティスで7月12日」の誤り。

 ほかにもおかしな記事があったように思いますが、よく覚えていません。

 






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