レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
ヤマハのメカニック(だった)斎藤静生さんへの取材だそうです。
YOSHIMURA NobuyaさんはTwitterを使っています 「@FeliceAki それです。藤原選手のYZR500押してる御大の写真を見て、そういば斎藤さん「初の海外レースは本橋さんのRD05A担当だった」と仰しゃってたな…と思って、う~んと前にもらったメモを読み返したら『1971年シンガポールGPにて長谷川R、本橋R参戦:海外レース初出張』と書いてあったというわけです。」 / Twitter
ホンダは1967年を最後に世界GPから撤退しましたし、ヤマハもRD05Aを世界GPで走らせたのは1968年が最後です。既に1970年から250㏄世界GPが2気筒・6段変速に制限されることが決まっており、RD05Aの開発は遅くとも1968年シーズン終了時点で終了していたはずです。
RD05Aは1969年4月のシンガポールGPを走っていますが、その後、1971年シンガポールGPまでレースを走らなかったとするなら、1971年シンガポールGPまで2年間もブランクがあったことになります。
1969~70年の2シーズン、空冷2気筒市販レーサーTR2(350cc)・TD2(250cc)が十分な実績を示していたにも関わらず、2年間、レースはもちろんヤマハテストコースを走ることがなかったであろうRD05Aをメンテナンスして1971年シンガポールGPのために走らせる必要性があったのでしょうか?RD05Aの出力がTR2を上回るとはいえ。
それとも2年間、RD05Aのメンテナンスとテストを継続していたのでしょうか? 何のために?
RACERS Volume 02(2010三栄書房)では斉藤さんについて次のように書かれています。
「入社3年目の’67年から研究2課に所属し、RD05A、RA97を皮切りに、YZR500/250の実験と実戦の両方でメカニックを務め~」
1971年シンガポールGPが斉藤さんの初海外出張とするなら、研究2課所属5年目ということになりますが、すこし遅すぎるように思います。
こちらはシンガポールのナショナルアーカイブにアップされている1971年シンガーポールGの写真
Track photographers at the Singapore Grand Prix 1971 at … (nas.gov.sg)
Start of the motorcycle race during the Singapore Grand Prix … (nas.gov.sg)
ゼッケン10は優勝したジェフ・ペリー(スズキTR500(XR05))。
ゼッケン20はTR2です。空冷冷却フィンが見えます。
Motorcyclists preparing to ride their motorcycles before the … (nas.gov.sg)
ゼッケン77もTR2です。
A motorcyclist preparing to ride his motorcycle before the … (nas.gov.sg)
ゼッケン105の大きな写真はないようですが、これもTR2のように見えます。
これらの写真のレースは、TR500が走っていることからオープンクラスのようですが、これとは別に250㏄クラスでRD05Aが走ったのでしょうか?TD2が1970年250cc世界GPチャンピオンマシンになった翌年に、なぜRD05Aを走らせる必要がある?
これらのことから「1971年シンガポールGP」のメモは誤りの可能性が十分あると思います。
さて、
RD05A YAMAHA (ganriki.net)
では、1968、1969年シンガポールGPのことについて触れていなかったので、これを加筆しました。
また、現存する1968年型RD05Aを「1967年製作」とするネット記事、雑誌記事がありますので、これについての私の意見も加筆しています。