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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

同時点火化による出力低下

 よく「等間隔点火(等間隔爆発)から同時点火(同時爆発)に変更すると出力が低下する」と言われています。ホンダWGP参戦50周年記念冊子(PDF)中、1990年型NSR500について

「各気筒の点火タイミングを90°ずつずらした、それまでの「90°等爆」から、2気筒ワンセットで180°ずらした「180°同爆」にすると、エンジンの出力ではやや不利になるが~」

とあります。

 4ストローク直列4気筒エンジンで同時点火(同時着火)にすると、普通の4-1、4-2-1排気管では排気干渉してしまうので、これらの排気管を用いることはできず、出力面で不利になります。しかし、2ストロークエンジンの排気管は気筒毎に独立していますので、このようなことはありません。

 ひょっとしたら、トルク変動が大きい方が出力が少なめになると考える方がいるかもしれません。しかし、V型2気筒より滑らかな回転と一般に思われる直列4気筒は、高回転時の慣性力によるトルク変動が非常に大きいのですが(こちらを参照)、2リッター直列4気筒エンジンが3リッター直列6気筒エンジンよりトルク変動が大きく、出力が後者の2/3を大きく下回るなんて聞いたことはありません。

 なぜ、2ストロークエンジンを同時点火にすると出力低下するかといえば、それは吸気系の問題だと考えます。

 これはヤマハ0W70(1983年型YZR500)エンジンです。

  シリンダーヘッドの数字が気筒番号です。1・2気筒に対して3・4気筒は右(向かって左)にずれています。1-4、2-3がそれぞれ同時点火で、点火間隔は180度です。
 キャブレターは2気筒用一体で、スロットルバルブが収まる部分に対応する気筒番号を白数字で記入しています。そして、青線、黄線で結んだキャブレターがそれぞれ同時点火気筒に対応します。

 これで分るように、2-3気筒のキャブレター吸気口が隣接しており、その周囲の空気を2つの吸気口が同時に奪い合うことになります。また、キャブレターのベルマウス部が隣接する部分は、ベルマウスの効果も少なくなります。


 さらに1992年シーズン後半以降、ヤマハ500㏄4気筒エンジンは90-270度間隔点火になりますが、1-3、2-4番気筒が各々同時点火と思われます。いずれも同時点火の吸気口が隣接するので、180度間隔同時点火より吸気への悪影響が大きくなります。
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スズキ250㏄市販ロードレーサー計画

 2ストロークマガジンによると、RGV-Γ250SP(VJ23)ベースの市販レーサー計画があったそうです。
https://www.facebook.com/2strokemagazine/photos/a.134713576605170/3397316723678156/

 私の手持ち資料には

XRA0 250市販レーサー XR95ベースの市販レーサー開発

という記述があります。VJ23自体がXR95の設計をベースにしていますから、上のリンク先の記事中のマシンの機種記号(計画記号)はXRA0ではないかと思います。





ケニー・ロバーツのGP出場数(2)

 前回、ロバーツの500ccクラス出場レースを整理したので、続いて250ccクラス。

 ケニー・ロバーツは1974年250ccオランダGPに出場、3位入賞したことが知られていますが、問題は1978年の250ccクラスです。この1978年、ロバーツは世界GPでは250ccと500ccに出場、F750世界選手権にも出場し、3つのタイトル獲得の構えでした。

 250ccクラスは全12戦で、入賞したのは250cc第1戦ベネズエラ(優勝)、第2戦スペイン(2位)、第3戦フランス(2位)、第5戦オランダ(優勝)です。ですから得点ランキング表だけみても4戦に出場したことがわかります。
 なお、MOTOGPの公式サイト(リンク)ではこの4戦のみ参戦として記載されています。

 無得点だったレースの結果について、MOTOCOURSE1978-79、ライダースクラブ誌(当時)の記述等をたよりに整理しますと

第4戦イタリア
 プラクティス 1位 レース リタイア(焼付き)

第6戦ベルギー
 プラクティス 7位 レース リタイア(焼付き)


第7戦スエーデン
 プラクティス 順位不明  レース 欠場

第8戦フィンランド
 プラクティス 4位 レース リタイア(ミスファイア)

第9戦イギリス
 プラクティス 2位 

第10戦 ドイツ
 プラクティス 5位

第11戦チェコスロバキア 
 欠場

第12戦ユーゴスラビア 
 欠場

 第8戦スエーデンGPでのロバーツについて、ライダースクラブ誌1978-10では「金曜日のプラクティスでめずらしくクラッシュしてしまったスーパー・アメリカン、ケニーロバーツ。かなりのダメージを小さな体に受け、さしものロバーツも250はあきらめ、500になんとか賭けたが7位を得るだけが精いっぱいであった」とあり、250㏄は欠場したことが書かれています。

 また、第8戦フィンランドについて、MOTOCOURSE1978-79では

  Roberts, with a theoretical chance of taking the championship and still in need of circuit knowledge, started brightly and held third place until a misfire put him out of the race and the championship.

とあり、レースに出場しました。
 
 フィンランドGP終了時点でランキング1位はコーク・バリントン(カワサキ 84点)、2位はグレッグ・ハンスフォード(カワサキ 79点)で、ロバーツはランキング3位(54点)でした。残り4戦ロバーツが2人に追い越すためには、2人がそれぞれ1~2回無得点にならないと困難な状況になっていました。
 
 一方、500㏄クラスでは僅差でランキング首位に立っていたので、500㏄クラスに集中することになりましたが、ロバーツにとって初めて走るコースが多く、プラクティスだけは250㏄マシンを走らせコース習熟を行ったとされています。

 
 年間ランキング表からすると、それはベルギーGP以降のように思われるかもしれませんが、イギリスGP以降と思われます。


 というわけで、ロバーツは250ccクラスについて、1974年は1戦、1978年は7戦出場し、500ccクラスの59戦と合わせて67戦出場、というのが現時点での私の考えです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
参考
 1978年250ccクラスのランキングです。最終ランキング3位のフェルナンデスは終盤のロバーツ欠場で最終的にロバーツを1点上回っただけなので、ここでは記載していません。

  1V 2E 3F 4I 5N 6B 7S 8Fin 9GB 10D 11Cz 12Y
Ballington  6 14 24 39 51 57 69 84 99 114 124
Hansford   15 30 42 52 67 79 91 103 118
Roberts 15 27 39 54

 ロバーツは第6戦ベルギーでリタイアしたものの、ライバルも上位入賞できなかったために、バリントンに3点差のランキング2位でした。第7戦スエーデンを欠場しても首位に15点差のランキング3位で、残り5戦で逆転の可能性は十分ありました。そして第8戦フィンランドのリタイアで、250ccタイトル獲得の可能性が非常に低くなったのです。

ケニー・ロバーツのGP出場数

【since1978】世界最高峰クラスで魅せ続けた伝説のライダー達 第1回:Kenny ROBERTS(ケニー・ロバーツ) - LAWRENCE - Motorcycle x Cars + α = Your Life. (lrnc.cc)
によると、60戦です。

ケニー・ロバーツ - Wikipedia
では68戦になっています。

MOTOGPの公式サイト
MotoGP™ Riders
のスタティスティックスの数字を合計すると62戦になります。もちろん、この数字は前に
JFRMCブログ MOTO GP公式サイトのリザルト(2) (tou3.com)
で指摘したように間違いです。



まず、500㏄クラスに限って整理します。

1983年
全12戦中12戦出場。

1982年
全12戦中8戦出場、ボイコット1戦(フランス)、欠場3戦(スエーデン、サンマリノ、ドイツ)

1981年
全11戦中10戦出場、欠場1戦(サンマリノ(体調不良))。
オランダではスターティンググリッドに着き、レースがスタートしましたが、ブレーキ故障(整備不良)により走れませんでした。スタート時点でグリッドに着いていたので「出場」としました。

1980年
全8戦中8戦出場。

1979年
全12戦中10戦出場、1戦ボイコット(ベルギー)、1戦欠場(ベネズエラ(負傷))。

1978年
全11戦中11戦出場。

合計すると12+8+10+8+10+11=59戦出場になります。
(続く)


RACERS Volume 57(2020三栄書房)

RACERS Volume 57(2020三栄書房)

この号の本題ではないですが、6頁。

「川崎航空機の社員だった藤井敏雄」


 藤井敏雄はスズキの社員でしたが、1965年11月にスズキを退社し
1966-世界選手権レ-ス 本文-1 (iom1960.com)

 1966年1月にカワサキと契約しています。川崎航空機社員であった期間はありません。カワサキとマシン貸与契約したことが「社員」という認識なのでしょうか。
カワサキOBさんからの「藤井敏雄くんの思い出」 (iom1960.com)

 
「この年、カワサキはエルンスト・デグナーとの契約を進めていたが~転倒して重傷を負い、契約は実現しなかった」
 
 契約しました。契約金も支払われています。
 カワサキのデグナーの思い出 - 雑感日記 (goo.ne.jp)

 負傷により日本GPに出場できなかったことが、ライター氏の頭の中で「契約が実現しなかった」と変換されたようです。それとも
1967年に向けての契約のことなのでしょうか。

 「当時(注:1967年)のGP125にはヤマハのV4やスズキのスクエア4がおり」
 
 スズキの125㏄スクエア4にはRS65、RS67がありますが、これらはレースに出場せず、1967年の大半は2気筒のRT67Ⅱ(グレアム)、RT67Ⅲ(片山)が走り、最終戦・日本GPでV型4気筒のRS67Ⅱが出場しました。
 スズキ250㏄スクエア4が1963~65年に走ったことが、ライター氏には125㏄のことになったのでしょうか?


「’69はGP125で多気筒エンジンと多段ミッションが禁止され」

 誤った記述がいつまでも伝播し続けている例ですね。2気筒・6段以下に制限されたのは1970年からです。
http://jfrmc.ganriki.net/zatu/nkkitou.htm

「11戦中8勝(中盤は6連勝)」

 1969年、世界GPは12戦開催されましたが、アルスターGPで125㏄クラスは行われなかったので、「11戦」で正解ですが、「6連勝」は誤りです。
 アルスターGPを挟んで125㏄クラスで7連勝しています。ライター氏はアルスターGPの125㏄の戦績がなかったので、アルスターGPで途切れて125㏄6連勝と勘違いしたのでしょう。



「これがカワサキのGP初優勝、初タイトルの記録である」
 初優勝が1969年125ccドイツGPであることがどこにも書いていないのですが・・・

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