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JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ヤマハ0W35(2)

 1977年シーズン中、0W35にヤマハ・パワーバルブ仕様のエンジンが搭載されました。

 2003年、ヤマハ・コミュニケーションプラザでの特別展
https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/exhibition/archives/2003_3/006/

「YZR500の’77年後期のOW35Kでロードレーサーに初採用され」とあります。

また、会場配布のパンフレットにも記述があります。
https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/exhibition/archives/2003_3/pdf/yzr500_brochure-j.pdf

 こちらの公式ブログでは、1977年フィンランドGPでベールを脱いだとされています。
https://www.yamaha-motor.co.jp/mc/yamaha-motor-life/2011/11/ypvs.html

  ライディングスポーツ誌1989-4にパワーバルブ付ヤマハ500の登場の経緯についての詳しい記述があり、これによれば1977年オランダGPがデビュー戦、そして、ベルギーGP、スペインGPでは優勝できなかったが、続くフィンランドGPでジョニー・セコットの手により優勝したとされています。もちろん「スペインGP」はスエーデンGPの誤りです。
 
 このライディングスポーツ誌1989-4中、オランダGP以降、ヤマハがマシンにカバー(記事ではシート)を被せエンジンの正体が分らないようにしていたとのことです。 

 MOTOCOURSE1977-78には「(プラクティスのヤマハ勢の低順位・低タイムについて)These disappointing practice times made even bigger mockery of the new Yamaha tactics of covering their machines by blankets to keep away prying eyes.」とあり、ヤマハがマシンをカバーしてたことが記述されています。もちろんMOTOCOURSEではパワーバルブについての言及はありません。

  オランダGPでのベーカーのマシンで、カバーが少し外れています。ただ、このマシンのエンジンはパワーバルブ仕様ではないようです。

 なお、このマシン、フェアリングに「YAMAHA」のロゴもなく、ゼッケン下のスポンサーステッカーも見当たらないことから、スペアフェアリングを装着したか、あるいは新たに持ち込まれたマシンと思われますし、プラクティスの初期の段階でしょう。

 これもオランダGPでのベーカーのマシン。これがパワーバルブ仕様のエンジンと思われます。

 このマシンがレースを走ったようです。

 では、パワーバルブ仕様のエンジンがGPの現場に初めて持ち込まれたのオランダGPが初めてなのでしょうか?
 

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ヤマハ0W35(OW35)

 ヤマハは1975年に0W23(OW23)により500㏄タイトルを手にしましたが、1976年にはファクトリーとしての500㏄レース活動を休止、0W23をセコット(のチーム=ベネモト)に貸与しただけで、セコットはランキング19位に終わりました。

 1976年12月、ヤマハは500㏄クラスへの本格復帰を発表、さらに翌年2月16日、袋井テストコースに報道陣が集められ、1977年型YZR500(0W35)、1977年型YZR750(0W31)お披露目が行われ、セコット、スティーブ・ベーカー、金谷秀夫、高井幾次郎による走行も行われました。
ヤマハニュースに記事があります(リンク)

 ホイールが「アルミキャスト」になっていますが、マグネシウムキャストの誤りでしょうね。で、ボア×ストロークが「56×50.5mm=497㏄」になっています。当時の雑誌にもこの数字が掲載されました(56×50.6と記載した雑誌もあり)。計算すると497.52㏄ですが、四捨五入ではなく小数点は切り捨てたのでしょう。

※最近ではヤマハはストローク50.6mmとしていますが・・・
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/machines/yzr500_0w35/

 このように0W20、0W23(いずれも54×54mm)よりショートストローク化され、1-2気筒間、3-4気筒間のボアピッチも92→115mmと広げられたため、「TZ750、YZR750よりスリムな500㏄」という0W23の印象は消え、フェアリングを装着した姿はYZR750(0W31)とゼッケン、排気管を除き区別がつきにくくなりました。そのフェアリングもいかにも風洞実験から得られたような流麗な形になりましたが、この形が本当に空気抵抗が小さかったかどうかは疑問があります。

 0W23からの他の変更点は次のとおりです。
〇吸気制御がピストン・リードバルブ→ピストンバルブ
〇キャブレターがパワージェット付になるとともに、2ストロークエンジン用としては珍しく吸気側エアファネルが装着された。
〇排気管の取り回しが変更された。

 さて、1977年シーズンは前述のセコット、ベーカーが第1戦ベネズエラGPから、マシン貸与の体制でジアコモ・アゴスチーニが第2戦オーストリアGPから参戦することとなりました。
 
 セコットは350㏄と500㏄の2クラスエントリーで、第1戦ベネズエラGPは350㏄で優勝、500㏄では4位で、500cc優勝はバリー・シーン(スズキ)、ベーカーは2位でした。
 そして第2戦350㏄オーストリアGPで多重クラッシュが起き、セコットは骨折。その事故処理を巡り紛糾し、500㏄クラスはトップライダーがボイコットした中で行われました。セコットは負傷のために第3戦ドイツGP以降を欠場し、500㏄第8戦スエーデンGPで復帰したのですが、それまでの間、ヤマハ0W35はベーカー、アゴスチーニの2人だけの手に委ねられました。その第3戦~第7戦の5戦で、ベーカーは2位1回、3位2回、4位、5位が各1回、アゴスチーニは2位、5位、8位が各1回という成績で、その間にシーンが4勝、ハートク(市販スズキRG500)が1勝したのです。

ヤマハ0W54(1981年型YZR500)(11)

 1981年、0W54に乗るケニー・ロバーツはランキング3位に終わりました。0W54にはチャンピオンマシンになるだけの潜在能力がなかったのでしょうか?


 ロバーツが500㏄世界GPに参戦した6シーズンにおけるチャンピオン、レース数、チャンピオンの出走レース数、得点は次のとおり。

年  チャンピオン レース数 出走数 得点   無得点レース数
1978 ロバーツ    11      11    110          2
1979 ロバーツ    11      10    113           1 
1980 ロバーツ     8         8   87(120)           1
1981 ルッキネリ   11      11    105                2
1982 ウンチーニ   11      11    103              3   
1983 スペンサー    12      12   144(132)        1

   
※( )内は11レース換算値。
※レース数:トップライターによりボイコットされた1979年ベルギー、1982年フランスを除いたレース数。
※無得点レース数:出走(スタート位置に着いた状態)したレースで無得点だったもの。

 チャンピオンの獲得得点(11レース換算)を比較すれば、0W54が用いられた1981年は少ない方です。

 81年、ロバーツの得点は74でしたが、サンマリノを体調不良で欠場、オランダでスタート位置に着きながらブレーキ整備不良でスタートできませんでした。これ以外にも、オーストリアは後サスペンションユニット不調でリタイア、ウェットレースだったスウェーデンでタイヤ選択ミスでリタイアしています。また、フランスで後サスペンションユニットの不調、フィンランドではパワーバルブの故障で、リタイアこそしませんでしたが、低順位になりました。

 0W54といえば、嵩張る重たいエンジンが戦闘力を失わせていたといわれています。しかし、チャンピオンの獲得得点がそれほど多くなかった1981年の世界選手権を争う上では、信頼性の低さ(オーストリア、フランス、フィンランド)と不運(オランダ、サンマリノ)がロバーツの足を大きく引っ張ったと思えてなりません。

ヤマハ0W54(1981年型YZR500)(10)

 4ストロークエンジンではクランクシャフトとシリンダーヘッドの位置が、エンジンの重心高を大きく左右しますが、2ストロークエンジンではシリンダーヘッドは小さく、クランクシャフトの搭載位置が重心高に大きく影響します。

 これは、1980年シーズン前に竜洋テストコースで公開されたスズキXR34(1980年型スズキRGB500)で、前後車軸を結ぶ空色線と、これと平行なクランクシャフト中心を通る黄線を加筆したものです。
 
 そして、80シーズン後に竜洋テストコースで公開されたXR34M2。
  

 そして、ヤマハ0W45(79年型YZR500)の公表写真。斜め前から撮影した写真ですので、黄線はクランクシャフト右端ではなく、その内側のクランクシャフトがあるであろう位置から引いています。
 
 XR34/XR34M2の2軸のクランクシャフトの平均高と0W45のクランクシャフト高はあまり変わらないようです。 

 そして、これは0W54の公表写真に加筆したもの。
 
 0W54の2軸クランクシャフト平均高が0W45より3㎝程度高いように見えます。


 さらに、これは0W54公表写真に前後車軸を結ぶ空色線と、これと平行な変速機カウンターシャフト(出力軸)先端中心(スプロケット中心)を通る白線を加筆したものです。
 
 前クランクシャフト中心が白線より上にあるように見えます。上のXR34、XR34M2(白線は加筆していませんが)の写真と見比べれば、前クランクシャフト位置が高く見えます。

 
各車のタイヤ径が異なること、写真撮影位置が異なり、比較方法が適切ではないことは承知の上であえて言うなら、シーズン当初、0W54エンジン重心の位置が他車より高かった可能性が高いと考えます。
 
 こちら(リンク)で書いたように、実戦ではA~C型フレームが用いられましたが、MOTOCOURSEによると、フランスで、続いてオランダで導入された2種のフレームは、それぞれエンジン搭載位置が下げられたということです。エンジン搭載位置を下げるにしても、チェーンスプロケットが取り付けられる変速機カウンターシャフトの高さは大きく変えられません。搭載位置を下げるなら、変速機カウンターシャフトを中心にエンジン全体を前傾させる必要があります。
 
シーズン前公表写真のマシン、A型ではシリンダーの路面に対する前傾角が30度程度だったものがB、C型では40度程度になったのはこのためです。


 レーシングマシンにとってエンジンの重心位置をどこに置くかが、レーシングマシンのハンドリングに大きく影響することは言うまでもありません。もちろん、エンジンの押しがけ始動のときのライダーの体感重さ(ふらつき)にも影響します。

 ライダーに不評だった0W54のハンドリングの原因の一つは、そのエンジン重心位置だったことは間違いないと思います。そして、それ以外にもいくつか原因として想像できる要素があります。

1 それまでのピストンバルブとは異なる
ロータリーディスクバルブエンジンの出力特性(その特性を調整しきれなかった)
2 長い前後長のエンジンを抱えるフレームの剛性、剛性バランスが並列4気筒車から変化したこと
3 新たに採用した16インチタイヤ

4 81年から倒立になった後クッションユニットの耐久性
 グッドイヤータイヤの性能(1981年限りでレースから撤退)

 1~4、そして重心位置、何れも「準備不足」が共通する要素だと思います。そして、ライバルのスズキXR35(1981年型RGΓ500)より5㎏程度大きな車重は、上の問題点に比べれば取るに足らないと考えています。
(続く)

ヤマハ0W54(1981年型YZR500)(9)

 RACERS Volume 19(三栄書房2013)によると、81年にヤマハ0W54のライバルとなったスズキXR35(81年型RGΓ500)の半乾燥重量(オイル、冷却水のみ含む)は130.4kg(スチールフレーム型)です。では0W54の半乾燥重量はどの程度だったのでしょうか?

 
RACERS Volume 02(三栄書房2010)に、0W54について次のような記述があります。

「Q17 0W54の性能は前モデルである0W53を凌駕したか? A 最大出力は上がったが、車重も増えた。その重さたるや「開発ライダーの金谷、高井の両氏から”重戦車”と酷評された」と奥氏」

 RACERS Volume 19では
「エンジン形式の変化に伴って重心位置が大きく変わり、それに車重の重さも加わって、なかなか良好なハンドリングを実現できす~」

 これらの記述からすると、0W54の半乾燥重量は相当なものと思われるでしょう。
 
 
ヤマハの市販レーサー・80年型TZ500の半乾燥重量は145kg、ヤマハ0W48の半乾燥重量は135~138kgと思われます(末尾の「参考」)。

 0W54が、0W48をベースにした0W53より重くて「ハンドリングが重戦車」なら、0W54の半乾燥重量は145~150㎏辺りなのでしょうか?


 TEAM SUZUKI by Ray Battersby, Osprey 1982/ Parker House 2008によれば、500㏄第2戦ドイツGPの車検時、スズキの岡本満、Martyn Ogborneが0W54の重量測定を見に行ったところ、136kgだったということです。このとき、0W54に燃料が残っていた可能性もありますから、この数字は「136kg以下」と理解すべきでしょう。

 そして、RACERS Volume 02によると0W60は0W54より車重を10㎏近くダウンということです。0W54の半乾燥重量を136㎏とするなら、0W60の半乾燥重量は127㎏程度になり、それでもXR40(82年型RGΓ500)より6㎏程度重かったことになります。0W54の半乾燥重量を145~150㎏と仮定するなら、82年にもなって、ヤマハ500(0W60)がスズキ500より15~20㎏も重かったことになってしまいます。

 これらのことから、TEAM SUZUKIの記述は妥当であり、0W54はスズキXR35のせいぜい5㎏増し程度の半乾燥重量で、0W48とほぼ同じだった考えます。XR35のスチールフレームに対して0W54はアルミフレームですから、エンジン単体の重量差は8㎏程度でしょうか。

 冒頭のRACERS Volume 02の記述のうち、金谷、高井の「重戦車」評価はライダーの感覚評価(官能評価)ですが、「車重も増えた」はライター氏の想像のようです。

 0W54のハンドリングに対するライダー(ロバーツを含む)の評価が低かった原因は、その車重によるのではないのです。
(続く)
・・・・・・・・・・
参考
 ヤマハの市販レーサー・80年型TZ500の公表重量は138㎏で、水・オイル4kg、フェアリング3kgを足すと半乾燥重量145kgになります。1980年日本GPで3位入賞した水谷のTZ500のレース後の車重が147kg、レース前日(土曜日)の車検時の糟野のTZ500が145kgという数字がこれを裏付けます。

 一方、1980年日本GPで優勝した高井のヤマハ0W48はレース後に142kgでした。高井は独走、水谷は転倒し再スタートしての追い上げで、二人のマシンの燃料消費量に差があるでしょうから、0W48の半乾燥重量は135~138kg程度だと思われます。http://jfrmc.ganriki.net/ow48/ow48-1.htm

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