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JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ヤマハRZ250

https://www.autoby.jp/_ct/17744983


「レースシーンで培ったノウハウを惜しみなく投入し、エンジンは市販レーサー・TZと同じボア・ストローク比を採用。排出ガス浄化のため燃焼効率が徹底的に見直され、燃料と2ストオイルの分離給油やCDI点火も導入された結果、最高出力は35PSに達した。これはリッター当たり140PSという驚異的なもので、当時の250ccモデルとしては異例の高性能だった。

 ボア・ストローク比といいますが、ボア・ストローク(54×54mm)が同じなのですから「比」は不要ですね。だいたい、1970年発売のDX250(空冷)から同じボア・ストロークです。

 ヤマハ250が分離給油になったのは1960年代です。

 ヤマハ250・2ストローク並列2気筒がCDIになったのは1979年型RD250(空冷)です。

 RZ250が発表されたのは1979年、46年前ですが、初めて姿を見せたのはパリ・ショーだったと思います。この時は輸出の主力となるRZ350(輸出版の名称はRD350LC)でした。
 RZ250が国内発売されたのは1980年8月で、私が初めて見たのは1980年8月下旬でした。その頃、私は某所で2週間研修を受けていたのですが、夕方まだ明るい時間帯に見た記憶ですので、研修が休みだった8月24日((日))だったと思います。2人乗りの白のRZ250が国道〇号線を東向きに走っていた光景は今でも鮮明です。
 
 当時、一般市販車の改造範囲が厳しく制限されたマシンによるプロダクションレースが行われていましたが、1980年日本GPのプロダクションレース(9月13日・土曜日)でRZ250が初登場し優勝(確か2位もRZ250だった記憶)。ただ、RZ250がMFJに公認されたのは9月12日ですので、ぎりぎり間に合ったというところでしょう。

 
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鈴鹿サーキットの設計者は誰?

https://jfrmc.ganriki.net/zakkan/suzuka/suzuka.htm

加筆修正しました。


●2-(3)鈴鹿サーキットの「設計者」 フーゲンホルツと塩崎の寄与比率の修正等
●3-(2)-虚偽2について フーゲンホルツの日本招聘に関し、ビザ取得の可能性について言及

等々です。


 外務省のウェブサイトからすると、短期であっても日本企業から報酬を得るならビザが必要です。
外務省 https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/visa/

 1961年当時、現在よりビザの必要な条件が緩いとは考えにくく、フーゲンホルツは就労ビザを取得していた可能性が高いと考えます。


 ビザ申請にあたってはホンダからの招聘状が必要ですし、「PLEASE COME TO TOKYO」だけの電報は招聘状になりえません。また、観光等のビザではなく就労ビザとなれば申請からビザ交付まで1ヵ月以上は必要でしょう。とすると、1960年10月頃には招聘状がフーゲンホルツに渡っている必要がありますし、それなら塩崎、飯田らがフーゲンホルツに直接渡したと考えるのが自然です。

 また、フーゲンホルツの招聘に関しては、依頼内容、期間、報酬等をフーゲンホルツに提示する必要がありますし、それは「PLEASE COME TO TOKYO」だけ書かれた電報ではありません。塩崎、飯田らは1960年訪欧時にフーゲンホルツに会ったのですから、直接依頼したはずです。

 塩崎が語った「フーゲンホルツを連れて帰った」を「連れて帰ったようなもの」と解するなら、まさにそのとおりだと思います。







 



 



ガソリン価格

2016年4月頃のレギュラーガソリン価格は104円(1リットルあたり、以下同じ)程度でした。


 2017年4月頃では129円ぐらい。



 最近は171円ぐらいでしょうか。決済アプリ、キーホルダー型決済カード使用の場合です。

 こちらのデータからすると、私はガソリン価格が安い地域で行動しているようです。
https://car-life.adg7.com/else/gas.html (1986→1987、1987→1988の誤りがあります)

 ここには1987年以降のデータがありますが、それ以前ですと1982年に172円でした。
https://nenji-toukei.com/n/kiji/10053


 当時、私は現住所とは違う地域に住んでいましたが、現金会員価格で175円でした。当時、給料は少なかったのですが、寮住まいで車通勤していませんでしたから何とかなりました。

 あれから42年経ってさらに車社会になっていますから、仕事、通勤で車を使わざるを得ない人にとって今のガソリン価格は大変な負担になっていると思います。








セルフのガソリンスタンドにて

https://x.com/yoneoka_koji123/status/189162419761863114


 タバコの火は論外ですが・・・

 10年程前、いつも利用していた〇〇〇〇Sのセルフ給油スタンドに行き車を停めて降車し給油機に前に行くと、店員が勝手に車の燃料タンクキャップを開けているではありませんか。ガソリンが大気に揮発する状態です。

 店員に「勝手に開けるなよ」と言うと、「(店員の)靴も服も帯電防止加工されていますから」という返事。

 「静電気処理していない私が給油口周りをうろうろするのに危ないじゃないですか」と言って、給油するのを止めてガソリンスタンドを後にしました。

 所轄の消防署に顛末を伝えると、「明確な禁止規定はないが、危険なので指導します」とのことでした。

 マニュアルは大事ですが、なぜそうなっているか理解できない人は「マニュアルに直接書いていないことは勝手にしていい」と考えることがよくわかりました。

千葉県野田市の水道

https://www.yomiuri.co.jp/national/20250213-OYT1T50199/

「長く民間水道として市民に給水された。その後、市北部の宅地開発などに伴い、市が水道事業を一本化し、1975年には同社から浄水場や水道管路などの水道施設を買収した。同社によると、移管時点での給水世帯は5740世帯、約2万4000人に上った。」

 野田市の資料(リンク)でも1975年の浄水場買収について書かれています。

 私は1971年3月まで野田市に住んでいましたが、1966年頃、父から「明日から水道料金がかかるから水を無駄に使うな」と言われ、それまで「水はタダ」と思っていましたから大変驚いたことを覚えています。20年程前、父にこのことを話すと「市内はキッコーマンが無料で給水していたが、その時に市に移管されたんだ」という返事でした。

 私と父の記憶が正しいなら次のことが考えられます。

 まず、水道料金を徴収する根拠は? という疑問があります。キッコーマンと市民の関係なら、契約を交わす必要があるでしょうが、そんなことをキッコーマンがするとは思えません。
 おそらく浄水場、主要管路はキッコーマン管理のまま、その枝管路を市に移管したのではないかと思います。つまり市はキッコーマンから水を買い、市が市民に水を給水し、市は条例に基づき料金を徴収する形になったのではないかと。
 そうすると、「1975年」は浄水場、主要管路を含めた水道事業全体が市に移管された年ということになります。
 
 私の水道料金の記憶が間違っている可能性もありますが、水道をキッコーマンが整備したことは野田市がキッコーマンの町だったことを物語ります。

 水道以外に、図書館もキッコーマン関係の財団法人が設置しており、私のいた頃、入館料は1円だった記憶です。先日、姉と会った時に図書館の話になり、姉も「1円」と記憶していました。この図書館は1979年に市に移管され、1998年に移転しましたが、「興風図書館」の名称は今も変わりません。



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