レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
通常の得点は15、12、10、8、6~だが、日本GPでは3点が加算される。
ベスト5戦を合計する有効得点制のため、佐藤は優勝しても12点しか加算されない。
35頁終わり「そしてTZ500の3位・水谷に続いて鈴木は4位、毛利は他車と接触してしまい転倒~」
誤りではないが次のように書いて欲しい。
「TZ500の水谷、毛利、TZ750の佐藤が2位争い(クラス1位争い)を演じるが、13周目のヘアピンで水谷が転倒、これに毛利、佐藤が巻き込まれて転倒。水谷は素早く再スタートし3位(クラス1位)で復帰するが、佐藤はマシン破損でリタイア、毛利は再スタートが遅れる。水谷は石川、鈴木との接戦の後に3位でゴール、鈴木4位、石川5位で、毛利は9位」
36頁左上・写真1「1980 R10 鈴鹿」
このカラーリングはR10(最終戦)決勝のものではない。水谷がTZ500で初めて出場した第6戦鈴鹿100マイルの可能性がある。
写真2・3「~木下を追うのはTZ750で3位になった金谷秀夫」
金谷が乗ったのはTZ500。
37頁写真2「’78年のA750チャンピオン#20上野真一も、’80年はTZ750で走り続けた」
’78年のエキスパート750チャンピオン♯20上野真一も、’80年第4戦からTZ500で走った。
さらに校正します。
※当時の雑誌記事では佐藤(TZ750)は第8戦、第9戦に入賞していましたし、日本GP前のライディング(MFJ機関誌)に掲載されたランキング表でもその得点が記載されています。
しかし、最終ランキング表ではその得点が見当たりません。原因として
(1)2レースとも後から失格になった。
(2)TZ750はMFJ公認車両ではなくFIM・F750公認車両として得点対象だったが、FIMの公認期限が過ぎた。
(3)最終ランキング表の誤り。
のいずれかと推測します。(2)が原因なら、佐藤は日本GP出場前にチャンピオンになる可能性がなくなっていたことになります。
「無為な議論」https://jfrmc.ganriki.net/zakkan/bariki.htm
で、ジェット機の速度と推力の関係について、日本航空のウエブサイトにあった「航空実用辞典」にリンクしていましたが、「航空実用辞典」が削除されたようなので、書籍版の「航空実用辞典」から図を引用しました。
この図です。
日本車の世界GP初レースは1959年マン島TT125㏄で、ホンダRC142が3台、RC141が2台出場しました。ライダーは次のとおり。
RC142:谷口尚己、鈴木義一、鈴木淳三
RC141:田中楨介、ビル・ハント
RC142とRC141の違いはエンジンのシリンダーヘッド周り、ピストン等で、現地でRC141エンジンにこれらの部品を装着しRC142エンジンとしたものです。また、車体はRC141もRC142も共通です。
ですから、RC142のエンジン番号、フレーム番号の機種名は「RC141」のままだったと思われます。
下はマン島で撮影された写真で、エンジンがRC142とRC141のどちらかはわかりませんが、エンジン番号は
RC141-50003
のようです。最後の数字は不明瞭ですが。
0
1961年型までのホンダのレーサーのエンジン番号は、
RC▲▲▲E-5〇〇〇〇
で、「E」はエンジン、「5」はレーサーを示すようですが、この写真では「E」は打刻されていないようです。