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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ホンダRC162とRC163

 1963年以降、雑誌記事では

 1961年型250㏄4気筒 RC162

 1962年型250㏄4気筒 RC163

とされていましたが、1994年に元ホンダ技術者の八木静夫氏が書かれた
世界二輪グランプリレースに出場したホンダ レース用エンジンの開発史 | 本田技術研究所 論文サイト (hondarandd.jp)
 
では
 RC162:1961年初戦スペインから連戦連勝
      1962年初戦から9連勝
 RC163:第1回全日本選手権(鈴鹿)用(注:世界GP後)
 RC164:1963年用
 2RC164:1964年8月のアイルランドまで

 となっています。なお、1961年初戦(第1戦)スペインではRC161のみが走りRC162は走っていません。
 また、1964年アルスターGP(北アイルランド)の後のイタリアGPでレッドマンは6気筒RC165(3RC164)に乗り換えましたが、2RC164は他のライダーの手によってイタリアGP、日本GPを走りましたし、1965年にもブルース・ビールが何戦か走らせています。


 さて、これはRC162E-50001


 これはRC162E-50017

 シリンダーヘッドとシリンダーの冷却フィンの一部が欠けていますが、50001と同型です。

 これはRC163E-110

 クランクケース下側の形状、クランク端カバー形状、シリンダー後部ギアトレーン部蓋、シリンダーヘッド前端部形状、吸気管長等々が異なります。

  さて、1966年までホンダのファクトリーライダーだったルイジ・タベリは、引退後も手元に125㏄5気筒と250㏄4気筒を保有し様々なイベントで走らせていましたが、その250㏄4気筒をHarry Miethが入手してレストアしました。

 このエンジンはRC163Eです。

 1962年全日本選手権ではジム・レッドマン、トミー・ロブ、田中楨助、北野元がホンダの250㏄4気筒に乗りましたが、4人が全てRC163に乗ったとしても4台です。
 
 八木静夫氏が書いたように1962年全日本選手権でRC163が役目を終えたとすると次の疑問が生じます。

●日本に現存するRC163E-110の「110」は「1番目の型の10号機」を示すと思われるが、(欠番がないとして)なぜ10基以上も作られたのか?テスト用があるとしても多すぎるのではないか?
●なぜRC163が日本を離れてタベリの元にあったのか?

 というようなことを含めて記事にしようと思います。

 参考まで、前回載せたRC164E-102








 

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ホンダRC164

 Bonhams Cars : The ex-Jim Redman, works,1964 Honda RC164 250cc Racing Motorcycle Frame no. RC164-103 Engine no. RC164-103

 かなり前にオークションに出されたホンダRC164(250㏄4気筒)で、エンジン番号/フレーム番号は

RC164E-103/RC164F-103

でしょう。


 さて、
世界二輪グランプリレースに出場したホンダ レース用エンジンの開発史 | 本田技術研究所 論文サイト (hondarandd.jp)
 
では

 1963年型:RC164

 1964年型:2RC164

とされていますが、オークションのマシンは、その記事からすると(エンジン・フレーム打刻がRC164であっても)1964年型になります。

 こちらはホンダコレクションホールのRC164E-102エンジン。


 エンジンの形がRC164E-103と微妙に異なりますね。

 こちらは1963年日本GPで撮影されたマシン。上のRC164E-102に似ています。




ヤリスのリコール

ヤリス、アクア、シエンタのロアアームリコールの状況、部品が少しずつ入荷中 - MHO ENGINEERING (team-mho.com)


 私のヤリスですが、トヨタからの通知を受けて2月5日頃に電話したところ、部品がまだ届いていないというこでしたが、2月9日にディーラーから電話があり整備日の予約ができました。


 近々、ディーラーに持ち込みます。仕事にヤリスを使っているわけではありませんし、ロードスターもありますから、ディーラーに一晩預けます。

ホンダRC145

 ホンダRC145は1962年125㏄世界選手権を獲得した125㏄2気筒DOHC4バルブ6段変速のレーサーです。

 第4戦マン島TTでは高橋国光、ジム・レッドマン、ルイジ・タベリ、トミー・ロブがRC145に乗り、トム・フィリス、島崎貞夫、デレク・ミンターがCR93プロトタイプに乗りました。


 下はマン島TTのプラクティス期間中、ホンダの整備場(ホテルのガレージ)に貼られた紙。

 右端から「オイル」、「プラグ」、「オイル××・・」のようです。それ以外の列について何とか読み取って表にしました。数字が読み取りにくいので誤読の可能性が十分あります。
 なお、ロブの名前がないことがチーム内優先順位を表しているようです。

 1959~1967年のホンダRCレーサーのエンジン番号は、次のようなものです。フレーム番号ではEがFに替わります。

 1961年まで  RC●●●E-500××
 1962~67年  RC●●●Eー△××

 ●●●は機種番号ですが、その他は

 5(50、500) レーサー(あるいは開発部門)
 ××  個体番号(製造番号)
 △  仕様変更(例えば3は3番目の仕様)

を示すものと思われます。

 上の表の「F No」はフレーム番号、「E No」はエンジン番号を示しますが、1962年のレースにも関わらず、3桁だけでなく5で始まる5桁の数字のエンジン/フレームがあります。

「世界二輪グランプリレースに出場したホンダ レース用エンジンの開発史」(八木静夫)では,RC145が1961年終盤戦から走ったこと、1963年までに14勝したことが書かれています。ホンダ2気筒は1962年に10勝、1963年に3勝していますので、差の1勝は1961年のものということになります。

 本当に1961年シーズン終盤にRC145が世界GPで走ったかどうか、私には確証がないのですが、上の表の5桁のエンジン番号・フレーム番号からすると、RC145には1961年に製作されたものがあり、1962年シーズンに1962年製作RC145とともに世界GPに投入されたものかもしれません。
 
 そうだとするなら、
スプロケットがかなり異なることから、1961年製作版と1962製作版では1次減速、あるいは変速機内部ギア比が異なるようです。

・・・・・・・
 もう一つの可能性として、この「500××」のマシンはRC145ではなく2RC143E/RC144Fかもしれません。ただ、1961年シーズン、エルンスト・デグナーが乗るMZに苦戦したマシン※が1962年も走ったのでしょうか?


※1961年、ホンダは11戦8勝しましたが、個人タイトル争いでは最終戦アルゼンチン前の時点でMZのデグナー(東ドイツ)が1位、ホンダのトム・フィリスが2位でした。
 デグナーはスエーデンGPで故意リタイアし、そのまま亡命。アルゼンチンGPではホンダチームのライバルチームはなく、フィリスが優勝しタイトルを手にしました(フィリスは2位以上でチャンピオンという形勢)。

 

小型救助車

配備の小型救助車、初動入れず 移送苦慮、広域応援に課題:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)


 メーカーのウェブサイトです。

小型オフロード消防車 Red Ladybug|消防車|株式会社モリタ (morita119.jp)


 公道も走れますが大型特殊免許が必要です。また左ハンドルです。

もはやサンダーバード(国際救助隊)か! 消防車開発の“モリタ”がすごい|Motor-Fan[モーターファン]

 ベースとなったカワサキのATVとスズキの軽トラの諸元です。



 確かにオフロードの走破性は軽トラより上でしょうが、軽トラと比べると小回りが少し効かず長距離移動も困難なので機能を発揮する場面が限られるということかな。

   

 

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