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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

RACERS Volume 57(2020三栄書房)

RACERS Volume 57(2020三栄書房)

この号の本題ではないですが、6頁。

「川崎航空機の社員だった藤井敏雄」


 藤井敏雄はスズキの社員でしたが、1965年11月にスズキを退社し
1966-世界選手権レ-ス 本文-1 (iom1960.com)

 1966年1月にカワサキと契約しています。川崎航空機社員であった期間はありません。カワサキとマシン貸与契約したことが「社員」という認識なのでしょうか。
カワサキOBさんからの「藤井敏雄くんの思い出」 (iom1960.com)

 
「この年、カワサキはエルンスト・デグナーとの契約を進めていたが~転倒して重傷を負い、契約は実現しなかった」
 
 契約しました。契約金も支払われています。
 カワサキのデグナーの思い出 - 雑感日記 (goo.ne.jp)

 負傷により日本GPに出場できなかったことが、ライター氏の頭の中で「契約が実現しなかった」と変換されたようです。それとも
1967年に向けての契約のことなのでしょうか。

 「当時(注:1967年)のGP125にはヤマハのV4やスズキのスクエア4がおり」
 
 スズキの125㏄スクエア4にはRS65、RS67がありますが、これらはレースに出場せず、1967年の大半は2気筒のRT67Ⅱ(グレアム)、RT67Ⅲ(片山)が走り、最終戦・日本GPでV型4気筒のRS67Ⅱが出場しました。
 スズキ250㏄スクエア4が1963~65年に走ったことが、ライター氏には125㏄のことになったのでしょうか?


「’69はGP125で多気筒エンジンと多段ミッションが禁止され」

 誤った記述がいつまでも伝播し続けている例ですね。2気筒・6段以下に制限されたのは1970年からです。
http://jfrmc.ganriki.net/zatu/nkkitou.htm

「11戦中8勝(中盤は6連勝)」

 1969年、世界GPは12戦開催されましたが、アルスターGPで125㏄クラスは行われなかったので、「11戦」で正解ですが、「6連勝」は誤りです。
 アルスターGPを挟んで125㏄クラスで7連勝しています。ライター氏はアルスターGPの125㏄の戦績がなかったので、アルスターGPで途切れて125㏄6連勝と勘違いしたのでしょう。



「これがカワサキのGP初優勝、初タイトルの記録である」
 初優勝が1969年125ccドイツGPであることがどこにも書いていないのですが・・・
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1976年型カワサキKR250?

 RACERS Volume 42(リンク)では、このスタジオ写真

と異なる、後サスペンションアームが丸パイプ(上写真は角パイプ)で、後排気管が車体右側に取りまわされているマシン(1975年オランダGP)を「1976年型:601B」としていました。

 ライター氏のFACEBOOKでは、リンク先のこの写真のマシンを1976年2型としています。

 しかし、この写真は1975年シーズン前のものです。ほぼ同じアングル、背景の写真がモーターサイクリスト誌1975-5(1975年4月1日発売)の表紙にあります。「日本の古本屋」(リンク)をご覧ください。

 1975年シーズン前(直前なのかどうかは分りませんが)に撮影されたマシンである以上、この写真のマシンを1976年型とすることはできません。このマシンも1975年型です。


マイク・ヘイルウッドの年齢

今月号のバイカーズステーション誌114-115頁に1961年マン島シニアTT(500㏄TT)の記事があります。非常に読みやすい記事ですので一読をお勧めします。

 で、優勝したマイク・ヘイルウッドの年齢が22歳になっていますが、21歳の誤りです。ちなみに記事にあるジュニアTT(350㏄TT)で優勝したフィル・リードが22歳でした。

RACERS Volume 55

 http://jfrmc.tou3.com/%EF%BD%8A%EF%BD%86%EF%BD%92%EF%BD%8D%EF%BD%83%E5%86%85%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B/nr500%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%96%E6%8C%9F%E8%A7%92

で、RACERS Volume 54と、「ホンダNRストーリー」(1992年山海堂)の食い違いについて書きました。Volume54と55に掲載されたバルブ挟角55度ヘッドの写真等からすると、NR500のバルブ挟角に関するRACERSの記述に誤りはないという結論になりました。

 一方、ホンダNRストーリーの記述も誤りというわけではなく、15頁と54・55頁の記述に時期が書いていないために、私が誤解したという結論です。

「K0→初期0Xの段階では、吸排気バルブの挟角は65°に設定されていた~後に55°ヘッドが製作されることになる」(15頁)。
 「デビュー戦イギリスGPとフランスGPの2戦を終えたNRメンバーは、早速NR500に生じた問題点の対策を開始した」
「シリンダーヘッドに関しては~バルブ挟角が55°から~40°に変更され、65°のときには110PSであった出力が55°のときには113PSに上がり、40°ではさらにどんどん向上していったのである」
「'79年末の時点では、エンジン出力もコンスタントに115PSを上回るようになったのである」(以上、54~55頁)

 これらの記述からすると「65度ヘッドのマシンがイギリス・フランスに送られる一方、日本では55度ヘッドの製作が進行しており、帰国後に55度ヘッドのマシンがテストされ、その前後に40度ヘッドのエンジンの設計開始し、1979年末には40度ヘッドエンジンがテストされた。」ように思えます。

ホンダNR

RACERS Volume 54はNR500を取り上げています。
 http://jfrmc.ganriki.net/zakkan/kaigainowadai.htm
で書いたが、NR500がデビューした1979年イギリスGPがNHKの「海外の話題」という10分番組で少し取り上げられたことからわかるように、これは二輪の世界を超えた大ニュースだった。
 
 1979年6月に公開されたNRを伝える雑誌記事で、すでに楕円(長円)ピストンであることが推測されており、これがうまくいくなら出力的に2ストロークに対抗できるのではないかと期待したことを思いだす。あれから40年か。

 NRについては
http://jfrmc.ganriki.net/zatu/nr/NR.html
にも少し書いていましたが、いろいろ思うこともあるので、どうしようか思案中です。
・・・・・・・・・・・・・
 で、NRとは関係ないのですが、本号14頁に「4スト最後の砦であった3気筒のMVアグスタ 500-3と渡り合えたのは’75年までで」とあります。

 1968年から1972年までMV3気筒の天下だったのですが、1973年にヤマハ500が登場すると、500㏄3気筒に加え350㏄のスケールアップ版の433.5cc、さらにフルスケール500㏄が投入されます。ただ、アゴスチーニは3気筒に乗り続け、リードは当初4気筒に乗っていましたが、ヤマハが(イタリアGP250㏄でのサーリネンの事故死により)参戦を休止するとリードも3気筒に乗ります。

 1974年、アゴスチーニはヤマハに移籍し、リード、ボネラの2人体制になり、4気筒が用いられました。ボネラが世界選手権以外のレースで3気筒に乗った写真はありますが。

 そして1975年は、もちろん4気筒のみが用いられました。

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