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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

枻(エイ)出版が民事再生法の適用申請

趣味の雑誌『Lightning』『RIDERS CLUB』『PEAKS』などを 出版していたエイ出版社が民事再生(帝国データバンク) - Yahoo!ニュース

 数日前にはいくつかの雑誌を事業譲渡していましたが、ライダースクラブは対象になっていないようです。

 通信販売のライダースクラブ(700円)が1975~1977年に5号ほど出版されました。当時、レースをまともに取り上げるバイク雑誌はなく、頁数が少なくてもレースだけを取り上げてくれる貴重な雑誌でした。もちろん、今でも全部持っています。

 そして1978年に枻出版により月刊化を果し総合誌となりましたが、バイク総合誌であっても、世界GP等の記事をちゃんと取り上げてくれる雑誌は他になく、700円は安いと感じたものです。そして半年後には編集長が根本健氏になりネモケン語を付き合うことになりますが、それ以上にレース記事が楽しみでした。そして1989年?に隔週刊化、そして再び月刊化した頃から毎号購入することはなくなり、この15年ぐらいは全く購入していない記憶です。
 
 今となっては寂しいというより、通信販売時代から1990年代初めの15年間がなつかしいという気持ちです。ただ、シーズン終了後、MOTO-GPマシン特集を掲載してくれる雑誌がライディングスポーツとバイカーズステーション(隔月刊)のみになりそうなのが不安ではあります。
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RACERS Volume 57(2020三栄書房)

RACERS Volume 57(2020三栄書房)

この号の本題ではないですが、6頁。

「川崎航空機の社員だった藤井敏雄」


 藤井敏雄はスズキの社員でしたが、1965年11月にスズキを退社し
1966-世界選手権レ-ス 本文-1 (iom1960.com)

 1966年1月にカワサキと契約しています。川崎航空機社員であった期間はありません。カワサキとマシン貸与契約したことが「社員」という認識なのでしょうか。
カワサキOBさんからの「藤井敏雄くんの思い出」 (iom1960.com)

 
「この年、カワサキはエルンスト・デグナーとの契約を進めていたが~転倒して重傷を負い、契約は実現しなかった」
 
 契約しました。契約金も支払われています。
 カワサキのデグナーの思い出 - 雑感日記 (goo.ne.jp)

 負傷により日本GPに出場できなかったことが、ライター氏の頭の中で「契約が実現しなかった」と変換されたようです。それとも
1967年に向けての契約のことなのでしょうか。

 「当時(注:1967年)のGP125にはヤマハのV4やスズキのスクエア4がおり」
 
 スズキの125㏄スクエア4にはRS65、RS67がありますが、これらはレースに出場せず、1967年の大半は2気筒のRT67Ⅱ(グレアム)、RT67Ⅲ(片山)が走り、最終戦・日本GPでV型4気筒のRS67Ⅱが出場しました。
 スズキ250㏄スクエア4が1963~65年に走ったことが、ライター氏には125㏄のことになったのでしょうか?


「’69はGP125で多気筒エンジンと多段ミッションが禁止され」

 誤った記述がいつまでも伝播し続けている例ですね。2気筒・6段以下に制限されたのは1970年からです。
http://jfrmc.ganriki.net/zatu/nkkitou.htm

「11戦中8勝(中盤は6連勝)」

 1969年、世界GPは12戦開催されましたが、アルスターGPで125㏄クラスは行われなかったので、「11戦」で正解ですが、「6連勝」は誤りです。
 アルスターGPを挟んで125㏄クラスで7連勝しています。ライター氏はアルスターGPの125㏄の戦績がなかったので、アルスターGPで途切れて125㏄6連勝と勘違いしたのでしょう。



「これがカワサキのGP初優勝、初タイトルの記録である」
 初優勝が1969年125ccドイツGPであることがどこにも書いていないのですが・・・

1976年型カワサキKR250?

 RACERS Volume 42(リンク)では、このスタジオ写真

と異なる、後サスペンションアームが丸パイプ(上写真は角パイプ)で、後排気管が車体右側に取りまわされているマシン(1975年オランダGP)を「1976年型:601B」としていました。

 ライター氏のFACEBOOKでは、リンク先のこの写真のマシンを1976年2型としています。

 しかし、この写真は1975年シーズン前のものです。ほぼ同じアングル、背景の写真がモーターサイクリスト誌1975-5(1975年4月1日発売)の表紙にあります。「日本の古本屋」(リンク)をご覧ください。

 1975年シーズン前(直前なのかどうかは分りませんが)に撮影されたマシンである以上、この写真のマシンを1976年型とすることはできません。このマシンも1975年型です。


マイク・ヘイルウッドの年齢

今月号のバイカーズステーション誌114-115頁に1961年マン島シニアTT(500㏄TT)の記事があります。非常に読みやすい記事ですので一読をお勧めします。

 で、優勝したマイク・ヘイルウッドの年齢が22歳になっていますが、21歳の誤りです。ちなみに記事にあるジュニアTT(350㏄TT)で優勝したフィル・リードが22歳でした。

RACERS Volume 55

 http://jfrmc.tou3.com/%EF%BD%8A%EF%BD%86%EF%BD%92%EF%BD%8D%EF%BD%83%E5%86%85%E3%81%AE%E8%A8%98%E4%BA%8B/nr500%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%96%E6%8C%9F%E8%A7%92

で、RACERS Volume 54と、「ホンダNRストーリー」(1992年山海堂)の食い違いについて書きました。Volume54と55に掲載されたバルブ挟角55度ヘッドの写真等からすると、NR500のバルブ挟角に関するRACERSの記述に誤りはないという結論になりました。

 一方、ホンダNRストーリーの記述も誤りというわけではなく、15頁と54・55頁の記述に時期が書いていないために、私が誤解したという結論です。

「K0→初期0Xの段階では、吸排気バルブの挟角は65°に設定されていた~後に55°ヘッドが製作されることになる」(15頁)。
 「デビュー戦イギリスGPとフランスGPの2戦を終えたNRメンバーは、早速NR500に生じた問題点の対策を開始した」
「シリンダーヘッドに関しては~バルブ挟角が55°から~40°に変更され、65°のときには110PSであった出力が55°のときには113PSに上がり、40°ではさらにどんどん向上していったのである」
「'79年末の時点では、エンジン出力もコンスタントに115PSを上回るようになったのである」(以上、54~55頁)

 これらの記述からすると「65度ヘッドのマシンがイギリス・フランスに送られる一方、日本では55度ヘッドの製作が進行しており、帰国後に55度ヘッドのマシンがテストされ、その前後に40度ヘッドのエンジンの設計開始し、1979年末には40度ヘッドエンジンがテストされた。」ように思えます。

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