レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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RACERS外伝 Vol.01(2018三栄書房)に技術者の奥雄二氏の次の回想が掲載されています。
「YPVS(注:ヤマハ・パワー・バルブ・システム)はYZR500には’77年くらいに入れたんですけど、当初はすごくトラブルが多かったんですよ。こちら(磐田)から現地にYPVSを入れたシリンダーを送るわけですけど、「新品そのままつけたらすぐに焼き付いたぞ。慣らしをしてすぐ送ってこい!」って話になって~」
1977年、マシン貸与のアゴスチーニにパワーバルブエンジンは与えられなかったでしょうから、ヤマハ・ファクトリーチームのベーカー、セコットの戦績を見てみます。各レースの順位は次のとおり。「-」は欠場、「R」はリタイア。
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V |
Atr |
A |
I |
F |
N |
B |
S |
Fin |
Cz |
GB |
ベーカー |
2 |
- |
3 |
4 |
3 |
5 |
2 |
3 |
12 |
R |
2 |
セコット |
4 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
2 |
1 |
1 |
R |
ベーカーは500㏄第1戦ベネズエラで2位入賞し、ボイコットした500㏄第2戦オーストリアを除き500㏄第9戦フィンランドまでのレース何れも完走しています。フィンランドの12位は何らかのマシントラブル、チェコのリタイアはエンジントラブルによるものです。
セコットは第1戦で4位、第2戦オーストリア350㏄での負傷で第2戦オースリア500㏄以降を欠場し、500㏄第8戦スエーデンで復帰、500㏄第9戦フィンランド、同第9戦チェコスロバキアで優勝、第11戦(最終戦)イギリスはマシントラブルでリタイアしました。
第9戦フィンランド以降、マシントラブルが多発していることが分ります。ただ、第8戦スエーデン以前のレースに0W35Kが出場し、たまたまトラブルがなかっただけかもしれません。
また、レースでパワーバルブによるトラブルが多発したとしても、そのレースで初めて明らかになるわけではなく、プラクティスでトラブルが多発していたはずです。
さて、これは1977年第1戦ベネズエラの写真。手前のゼッケン32・ベーカーの0W35のエンジン周りにカバーが掛けられていますが、その奥のマシンにはカバーがありません。
1977年2月の報道陣公開の時に0W35のフェアリングを外したマシンもあり、エンジンも見せているのですから、サーキットの現場でエンジンを隠す理由は「このエンジンが(シーズン前公開のマシンとは異なる)新型」、「新型エンジンであると思いこませたい」でしょう。
カバーの理由として、埃っぽい土地なので、キャブレター周りへの埃の堆積を防ぐための可能性もありますが、それなら写真の2台のマシン両方にカバーを掛けるはずです。
次に、こちらの写真は第3戦ドイツGPプラクティスでのベーカーの0W35。「T」マークが2つあります。
つまり第3戦でベーカーには少なくとも3台のマシンが与えられたのです。セコット欠場によりセコット用のマシンがベーカーに回ってきたのだと思いますが、単に台数だけ増えても混乱するだけで、3台のマシンの中には大きく仕様が異なるマシンがあったことが窺えます。
0W35Kのクランクケースが0W35とは異なるであろうこと、奥氏の回想、上の写真、オランダGPに関するMOTOCOURSEの記述等からすると、
〇1977年シーズンの早い段階から0W35KエンジンがGPサーキットに持ち込まれていた。
〇各GPの公式日程(車両検査~official practice~レース)前の自由練習の段階で0W35Kシリンダー焼付きが多発。とてもレースに出せる状態ではなかった。
〇オランダGPで改良型0W35Kシリンダー周り部品が持ち込まれ、公式日程に姿を見せた。レースで走ったかどうかは不明。
〇それ以降もパワーバルブエンジンの信頼性は十分ではなかったが、何とか2勝することができた。
というようなことも想像できます。
ただ、私には、GPサーキットの現場に0W35Kエンジンが初めて持ち込まれたのがどのGPなのか、0W35Kが初めて走ったレースがどのGPなのか確証が持てないのです。
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ヤマハの公式ブログでは「フィンランドGPでベールを脱いだ」
https://www.yamaha-motor.co.jp/mc/yamaha-motor-life/2011/11/ypvs.html
とありますが、当時、パワーバルブであることが公表されていなかったし、報道もなかったにも関わらず「ベールを脱いだ」とは?
レーサーズ外伝 Vol.01でも「YPVSが初めて投入されたのは’77年世界GP第9戦フィンランドGPに出場した0W35Kで、ジョニー・チェコットのライディングにより優勝を飾った」
少なくとも、フィンランドGP以降、0W35Kがレースを走ったことは間違いないようです。
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この投稿以降では以下、0W35のパワーバルブ無仕様を単に「0W35」、0W35のパワーバルブ仕様を「0W35K」と記します。
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1978年型0W35Kのシリンダー/シリンダーヘッドのクランクケースへの組付け方は1977年型0W35と異なります。これは1978年型0W35Kのシーズン前公表写真のシリンダー部を拡大したもの。
黄色矢印の先にナットが見えます。シリンダー前側が分離締めになっています。シリンダー後側は共締めのままです。
シリンダーにパワーバルブを収めるため、そして各気筒のパワーバルブを連結するためと考えられます。
(1978年実戦型0W35Kについては次回以降)
また、クランクケースのクランクセンターの上部形状が1977年型0W35(下)と異なり、クランクケースの型が変更されていることが分ります。
これは1978年第1戦ベネズエラGPでのロバーツの0W35です。片山も第1戦は0W35に乗り(両者とも第2戦以降は0W35Kに乗りました)、セコットが第1戦から0W35Kに乗りました。
パワーバルブ無とはいえ、クランクケースは1977年型0W35とは異なり、1978年型0W35Kと同型のように見えます。あるいは1977年型0W35Kのものかもしれません。
シリンダーは1977年型0W35と同様、2気筒一体で共締めですが、(シリンダーヘッド形状が変わったので分りにくいですが)シリンダーヘッドのナットの位置は、後側は1977年型とほぼ同じ位置で、前側のナットは1977年型と異なりシリンダーの隅にあります。つまり、1978年型のクランクケースの前側のスタッドボルトが収まる位置が1977年型より外側になっているようです。
これは、当初、1978年型0W35Kシリンダー後側は共締めのまま、シリンダー前側が分離締めになっており、そのために前側のスタッドの位置が外側にずれたためと考えられます。前後共締めのこの0W35も同じクランクケースを使用しているため、シリンダー前側の共締め用スタッドボルトの位置がシリンダー隅にあると思われます(※1)。
1977年型0W35Kでも、パワーバルブをシリンダーに収めるためにシリンダー/シリンダーヘッドの前側は分離締めで、クランクケースのシリンダー前側スタッドボルト位置が1977年型0W35とは異なったはずです(※2)。
ですから、1977年に初めてGPサーキットに持ち込まれた0W35Kが、単に0W35にパワーバルブ仕様シリンダー等のパーツが装着され0W35Kに改修されたものだったとは思えません。
※1 ボアピッチが小さく掃気ポート断面積が小さい0W23では共締め用スタッドボルトがシリンダーの隅にあります。
※2 1977年型0W35Kエンジンはスライド(ギロチン)型バルブではなく鼓型バルブだったことを前提にしています。
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ライディングスポーツ誌1989-4の記事は物語風にまとめられているので、どこまでがヤマハ関係者の証言(あるいは記録)なのか、ライター氏の想像なのかがよく分りません。「フランスGP終了後~YZR500用のパワーバルブ一式が、機内持ち込み手荷物として、ひとりのエンジニアとともにヨーロッパに渡った」とありますが、1977年型0W35をパワーバルブ無仕様からパワーバルブ有仕様にするためには、パワーバルブ付きシリンダー、パワーバルブ作動用サーボモーター、CDIユニット(パワーバルブ作動対応)等だけでは済まないと思われます。
※1977年のパワーバルブ仕様はスライド(ギロチン)型バルブではなく鼓型バルブだったことを前提にしています。
これはTZ750のクランクケースで、スタッドボルトがクランクケースに刺さっています。これにシリンダーを通してシリンダーヘッドを被せ、袋ナットで締め付けます。いわゆる「共締め」です。
これは1977年型0W35の公表写真。TZ750と同様に共締めで、赤い袋ナットが見えます。
このスタッドボルトがシリンダーを通る部分が邪魔になり、シリンダーに鼓型パワーバルブを装着できません。仮に装着できたとしても、スタッドボルトが邪魔になり、各シリンダーのパワーバルブを連結できません。
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1977年シーズン中、0W35にヤマハ・パワーバルブ仕様のエンジンが搭載されました。
2003年、ヤマハ・コミュニケーションプラザでの特別展
https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/exhibition/archives/2003_3/006/
「YZR500の’77年後期のOW35Kでロードレーサーに初採用され」とあります。
また、会場配布のパンフレットにも記述があります。
https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/exhibition/archives/2003_3/pdf/yzr500_brochure-j.pdf
こちらの公式ブログでは、1977年フィンランドGPでベールを脱いだとされています。
https://www.yamaha-motor.co.jp/mc/yamaha-motor-life/2011/11/ypvs.html
ライディングスポーツ誌1989-4にパワーバルブ付ヤマハ500の登場の経緯についての詳しい記述があり、これによれば1977年オランダGPがデビュー戦、そして、ベルギーGP、スペインGPでは優勝できなかったが、続くフィンランドGPでジョニー・セコットの手により優勝したとされています。もちろん「スペインGP」はスエーデンGPの誤りです。
このライディングスポーツ誌1989-4中、オランダGP以降、ヤマハがマシンにカバー(記事ではシート)を被せエンジンの正体が分らないようにしていたとのことです。
MOTOCOURSE1977-78には「(プラクティスのヤマハ勢の低順位・低タイムについて)These disappointing practice times made even bigger mockery of the new Yamaha tactics of covering their machines by blankets to keep away prying eyes.」とあり、ヤマハがマシンをカバーしてたことが記述されています。もちろんMOTOCOURSEではパワーバルブについての言及はありません。
オランダGPでのベーカーのマシンで、カバーが少し外れています。ただ、このマシンのエンジンはパワーバルブ仕様ではないようです。
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なお、このマシン、フェアリングに「YAMAHA」のロゴもなく、ゼッケン下のスポンサーステッカーも見当たらないことから、スペアフェアリングを装着したか、あるいは新たに持ち込まれたマシンと思われますし、プラクティスの初期の段階でしょう。
これもオランダGPでのベーカーのマシン。これがパワーバルブ仕様のエンジンと思われます。
このマシンがレースを走ったようです。
では、パワーバルブ仕様のエンジンがGPの現場に初めて持ち込まれたのオランダGPが初めてなのでしょうか?
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ヤマハは1975年に0W23(OW23)により500㏄タイトルを手にしましたが、1976年にはファクトリーとしての500㏄レース活動を休止、0W23をセコット(のチーム=ベネモト)に貸与しただけで、セコットはランキング19位に終わりました。
1976年12月、ヤマハは500㏄クラスへの本格復帰を発表、さらに翌年2月16日、袋井テストコースに報道陣が集められ、1977年型YZR500(0W35)、1977年型YZR750(0W31)お披露目が行われ、セコット、スティーブ・ベーカー、金谷秀夫、高井幾次郎による走行も行われました。
ヤマハニュースに記事があります(リンク)。
ホイールが「アルミキャスト」になっていますが、マグネシウムキャストの誤りでしょうね。で、ボア×ストロークが「56×50.5mm=497㏄」になっています。当時の雑誌にもこの数字が掲載されました(56×50.6と記載した雑誌もあり)。計算すると497.52㏄ですが、四捨五入ではなく小数点は切り捨てたのでしょう。
※最近ではヤマハはストローク50.6mmとしていますが・・・
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/machines/yzr500_0w35/
このように0W20、0W23(いずれも54×54mm)よりショートストローク化され、1-2気筒間、3-4気筒間のボアピッチも92→115mmと広げられたため、「TZ750、YZR750よりスリムな500㏄」という0W23の印象は消え、フェアリングを装着した姿はYZR750(0W31)とゼッケン、排気管を除き区別がつきにくくなりました。そのフェアリングもいかにも風洞実験から得られたような流麗な形になりましたが、この形が本当に空気抵抗が小さかったかどうかは疑問があります。
0W23からの他の変更点は次のとおりです。
〇吸気制御がピストン・リードバルブ→ピストンバルブ
〇キャブレターがパワージェット付になるとともに、2ストロークエンジン用としては珍しく吸気側エアファネルが装着された。
〇排気管の取り回しが変更された。
さて、1977年シーズンは前述のセコット、ベーカーが第1戦ベネズエラGPから、マシン貸与の体制でジアコモ・アゴスチーニが第2戦オーストリアGPから参戦することとなりました。
セコットは350㏄と500㏄の2クラスエントリーで、第1戦ベネズエラGPは350㏄で優勝、500㏄では4位で、500cc優勝はバリー・シーン(スズキ)、ベーカーは2位でした。
そして第2戦350㏄オーストリアGPで多重クラッシュが起き、セコットは骨折。その事故処理を巡り紛糾し、500㏄クラスはトップライダーがボイコットした中で行われました。セコットは負傷のために第3戦ドイツGP以降を欠場し、500㏄第8戦スエーデンGPで復帰したのですが、それまでの間、ヤマハ0W35はベーカー、アゴスチーニの2人だけの手に委ねられました。その第3戦~第7戦の5戦で、ベーカーは2位1回、3位2回、4位、5位が各1回、アゴスチーニは2位、5位、8位が各1回という成績で、その間にシーンが4勝、ハートク(市販スズキRG500)が1勝したのです。
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