レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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1978年、ヤマハはセコット、片山敬済、ケニー・ロバーツの3人体制を採ります。セコットはヤマハ本社契約、片山は(おそらく)ヤマハモーターN.V.、ロバーツはヤマハモーターUSの契約です。 1978年第1戦ベネズエラ、セコットのマシンは0W35Kでしたが、片山、ロバーツのマシンは0W35で、第2戦スペインで片山、ロバーツにも0W35Kが与えられました。
再び1978年型0W35Kのシーズン前公開写真。
黄色矢印がシリンダー分離締めのナット、青矢印がシリンダーヘッド分離締めのナット/ボルト、赤矢印がシリンダー/シリンダーヘッド共締めのナットです。
なお、0W35ではシリンダー/シリンダーヘッドは2気筒一体ですが、0W35Kは各気筒別体です。
このように、シリンダー前後で組付け方が異なることは、シリンダーの歪み→焼付きの要因になったようで、1979年の0W45では全て分離締めになります。ただ、単気筒ならともかく、直列4気筒のシリンダー基部のナッの脱着は(1、4番気筒外側のナットを除き)面倒くさかったでしょう。
これは現存する0W35Kエンジンです。
写真右がエンジン前方向です。
シーズン前公開写真の0W35Kと異なり、シリンダーヘッド右後の共締めナットが消え、シリンダーヘッド右のナットが1→2に増え、さらにシリンダーヘッド前後にナットが各1あります。
シリンダー基部の後側には分離締めナットは見えません。シリンダーヘッド右の2つのナットのうち、後ろのナットが共締め用ナットなのでしょうか?
次の理由からそうではないようです。
〇ナットの大きさが他のナットと同じ。
〇ナットの位置が、本来、共締め用ナットが配置される位置より前にある。
〇ナットの位置からすると、スタッドボルトが収まる部分が掃気ポートと重なってしまう。
このようなことからすると、現存する0W35Kのシリンダー後側は分離締めで、シリンダー基部のスタッドボルト/ナットは、シリンダー壁外側ではなく内側にあるように思えます。
この変更はどの時期に行われたのでしょうか?
素晴らしい。これ以上の言葉は不要。
浅間~1960年代GP
モトクロス
ロードレース1970年代~1983
でTZ250の整備が始まっています。
https://www.facebook.com/YamahaCommunicationPlaza/posts/3437062389740739
モノクロスサスペンション、フレーム形状、フェアング形状・・・からTZ250C/D/E(76/77/78年型)と分ります。TZ250Ⅱと呼ばれることもあります。
以前に見たときにメモしたエンジン番号からするとC型(76年)ということになりますが、フレーム番号は確認できませんでした。サイレンサー付が標準になったのはD型からですので、排気管はD/E仕様です。シリンダーの部品番号はメモしませんでしたが、CとDでは部品番号が異なるはずです。Eではどうなのか知りません。
TZ250は1979年に大きくモデルチェンジします。国内250㏄クラスは(当時)ノービス、ジュニアクラス専用で、1979年にノービス250㏄チャンピオンになった斉藤光雄選手が乗ったTZ250も78年以前のものでした。斉藤選手は1980年にジュニアに昇格しましたが、引き続き旧型マシンで奮闘した記憶です。

RACERS外伝 Vol.01(2018三栄書房)に技術者の奥雄二氏の次の回想が掲載されています。
「YPVS(注:ヤマハ・パワー・バルブ・システム)はYZR500には’77年くらいに入れたんですけど、当初はすごくトラブルが多かったんですよ。こちら(磐田)から現地にYPVSを入れたシリンダーを送るわけですけど、「新品そのままつけたらすぐに焼き付いたぞ。慣らしをしてすぐ送ってこい!」って話になって~」
1977年、マシン貸与のアゴスチーニにパワーバルブエンジンは与えられなかったでしょうから、ヤマハ・ファクトリーチームのベーカー、セコットの戦績を見てみます。各レースの順位は次のとおり。「-」は欠場、「R」はリタイア。
|
V |
Atr |
A |
I |
F |
N |
B |
S |
Fin |
Cz |
GB |
ベーカー |
2 |
- |
3 |
4 |
3 |
5 |
2 |
3 |
12 |
R |
2 |
セコット |
4 |
- |
- |
- |
- |
- |
- |
2 |
1 |
1 |
R |
ベーカーは500㏄第1戦ベネズエラで2位入賞し、ボイコットした500㏄第2戦オーストリアを除き500㏄第9戦フィンランドまでのレース何れも完走しています。フィンランドの12位は何らかのマシントラブル、チェコのリタイアはエンジントラブルによるものです。
セコットは第1戦で4位、第2戦オーストリア350㏄での負傷で第2戦オースリア500㏄以降を欠場し、500㏄第8戦スエーデンで復帰、500㏄第9戦フィンランド、同第9戦チェコスロバキアで優勝、第11戦(最終戦)イギリスはマシントラブルでリタイアしました。
第9戦フィンランド以降、マシントラブルが多発していることが分ります。ただ、第8戦スエーデン以前のレースに0W35Kが出場し、たまたまトラブルがなかっただけかもしれません。
また、レースでパワーバルブによるトラブルが多発したとしても、そのレースで初めて明らかになるわけではなく、プラクティスでトラブルが多発していたはずです。
さて、これは1977年第1戦ベネズエラの写真。手前のゼッケン32・ベーカーの0W35のエンジン周りにカバーが掛けられていますが、その奥のマシンにはカバーがありません。
1977年2月の報道陣公開の時に0W35のフェアリングを外したマシンもあり、エンジンも見せているのですから、サーキットの現場でエンジンを隠す理由は「このエンジンが(シーズン前公開のマシンとは異なる)新型」、「新型エンジンであると思いこませたい」でしょう。
カバーの理由として、埃っぽい土地なので、キャブレター周りへの埃の堆積を防ぐための可能性もありますが、それなら写真の2台のマシン両方にカバーを掛けるはずです。
次に、こちらの写真は第3戦ドイツGPプラクティスでのベーカーの0W35。「T」マークが2つあります。
つまり第3戦でベーカーには少なくとも3台のマシンが与えられたのです。セコット欠場によりセコット用のマシンがベーカーに回ってきたのだと思いますが、単に台数だけ増えても混乱するだけで、3台のマシンの中には大きく仕様が異なるマシンがあったことが窺えます。
0W35Kのクランクケースが0W35とは異なるであろうこと、奥氏の回想、上の写真、オランダGPに関するMOTOCOURSEの記述等からすると、
〇1977年シーズンの早い段階から0W35KエンジンがGPサーキットに持ち込まれていた。
〇各GPの公式日程(車両検査~official practice~レース)前の自由練習の段階で0W35Kシリンダー焼付きが多発。とてもレースに出せる状態ではなかった。
〇オランダGPで改良型0W35Kシリンダー周り部品が持ち込まれ、公式日程に姿を見せた。レースで走ったかどうかは不明。
〇それ以降もパワーバルブエンジンの信頼性は十分ではなかったが、何とか2勝することができた。
というようなことも想像できます。
ただ、私には、GPサーキットの現場に0W35Kエンジンが初めて持ち込まれたのがどのGPなのか、0W35Kが初めて走ったレースがどのGPなのか確証が持てないのです。
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ヤマハの公式ブログでは「フィンランドGPでベールを脱いだ」
https://www.yamaha-motor.co.jp/mc/yamaha-motor-life/2011/11/ypvs.html
とありますが、当時、パワーバルブであることが公表されていなかったし、報道もなかったにも関わらず「ベールを脱いだ」とは?
レーサーズ外伝 Vol.01でも「YPVSが初めて投入されたのは’77年世界GP第9戦フィンランドGPに出場した0W35Kで、ジョニー・チェコットのライディングにより優勝を飾った」
少なくとも、フィンランドGP以降、0W35Kがレースを走ったことは間違いないようです。
