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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

1959年、ホンダチームはマン島に行って初めてクリップスコースが使われることを知ったって?(2)

「1959年、ホンダチームはマン島に行って初めてクリップスコースが使われることを知ったって?」でMat Oxleyの誤った認識を取り上げましたが、その続編です。

 これは1959年1月にマン島を訪れたホンダの新妻氏、Hunt(左2人)。
 
 この場所は「Clypseコース」で紹介した場所です。二人が立っていた場所の現在はこちら。

 奥の木々は下の写真のようにかなり伐採されています。


 ここは上写真の左コーナーに続いて2つ上写真の短い直線と右コーナーがあるセクションで、「Nursery Bends」という名前が付けられていました。マウンテンコースとクリップスコースで共通の道路もありますが、ここはクリップスコースのみに用いられた道路です。 

 当たり前のことですが、ホンダは1959年1月の段階でクリップスコースの下見をしていたのです。

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マン島TTに出場するマシンのゼッケンの色

 かつて世界GPに出場するマシンのゼッケンは排気量クラスごとに地色と数字の色が定められていましたが、マン島の前ゼッケンだけは全クラスとも白地に黒数字だった理由についての記事です。
https://lrnc.cc/_ct/17133761

 1960年代の雑誌やその当時の写真をまとめた本、雑誌を見れば、マン島だけでなくアルスターGP(北アイルランド)でも前ゼッケンのみ白地に黒数字だったことにすぐ気が付くと思うのですが、アルスターGPとマン島TTの区別がつかないのかもしれません。もちろん、北アイルランドはイギリス・UKの一部です。

 そして、イギリスで出版された本を見れば、世界選手権以外のイギリス国内レースでも前ゼッケンの色が同じだったことに気が付きます。今では有名ライダーとイギリス本土のサーキット名で検索すれば、いくらでも当時の国内レースの写真を見ることができます。

 したがって、上の記事は前提となる認識「マン島に出場するマシンのみが前ゼッケンの色がクラス別の色ではなく白地に黒」が誤っているので、それ以外の記述はどうでもいい内容です。なお、「1967年のライトウェイト(250㏄)TTを走るヤマハRD05Aとフィル・リード」は1968年の誤りです。1967年ならゼッケン14で、マシンの外観も若干異なります。

 さて、次の写真は1967年マン島TT125㏄の出場したマシンです。

 左のゼッケン12は本橋明泰(ヤマハRA31)で前ゼッケンは白地に黒数字です。ところが右の写真では同じゼッケン12でも前ゼッケンは125㏄クラスを示す黒地に白数字です。実は左はレース中、右は公式練習期間中に撮影されたものです。

 マン島TTの公式練習では複数のクラスのマシンが同時に走るのが通例です。これは1964年の公式練習の日程(http://www.iom1960.com/memories/iom-practice.html)

 公式練習がクラス別に行われるなら、ラップタイムの計測ではマシンのゼッケンの数字のみを確認するのですが、マン島の公式練習ではクラスも確認しなければなりません。マシンが計測地点に近づき横ゼッケンの色が見えてからでは遅いので、遠くから近づくマシンの前ゼッケンの色を確認する必要があります。そのため、公式練習時のみはクラス別の色にしていたと思われます。










1959年、ホンダチームはマン島に行って初めてクリップスコースが使われることを知ったって?

 という記事がこちらにありました。
 https://togetter.com/li/1373687

 原文は
The big surprise that awaited Honda when they arrived on the IoM was that the riders had spent months learning the Mountain Course, using a translated Geoff Duke TT riding guide, only to find out that the 125 race would be run on the completely different Clypse course!”
日本語訳は
マン島に到着したホンダの一行はとんでもなく驚くことになる。ホンダのライダーたちはジェフ・デュークによるTTライディングガイドを翻訳したものを頼りに何か月もかけてマウンテンコースを学んでいたのに125は全く違うクリプス・コースで行われることが判明したのだ!」

 監督だった河島喜好氏の寄稿記事(モーターサイクリスト誌(1962/1~1962/3号)によると、
〇1959年1月に新妻氏とビル・ハントが調査のためイギリス、マン島に行った。河島氏も同行してコースを見たいと思ったが、行けなかった。
〇実際にマン島に行ってみると、想像したのと実際に見たのとは大違い。新妻氏の説明が悪かったのと河島の聞き方が悪かったのとの両方が原因。

 現地調査はデュークのガイド本だけを持ち帰るだけの簡単なお仕事ではありません。コースを下見するのは当然です。また、主催者、あるいはそれに近い関係者からもヒアリングします。MFJがないのですから、ライダーのライセンスをどうしたら取得できるか、出場申込をどのように行うか、現地でマシンの整備はどこでやるのか、プラクティスの日程は・・・いくらでも調査することがあります。そんな彼らがクリップスコースが軽量級で用いられることを知らないはずがないのです。

 原文を書いたMat OxleyはホンダがTT出場までにどんな準備をしたかを知らないのでしょう。あるいは(飯田氏にインタビューしたようなので)飯田氏自身が勘違いしている可能性もある。何しろ60年前のことですから。

 それ以前にTTレースの1か月も前にマン島に到着し準備をしようというホンダがこんな勘違いをしていたという考えがおかしいことに気が付かないのですから、ジャーナリストとしてのセンスを疑うところです。

 なお、クリップスコースが用いられたのは1959年が最後になるのですが、河島氏によると「1960年の春も近くなる頃に1960年のマン島TTは軽量級もマウンテンコース
で行われることが発表され、しまったと思った。1959年のマン島遠征では観光のためにマウンテンコースを1周しただけで、詳しく調べていなかったから」ということです。この話がOxley氏の頭の中で、ホンダチームが1959年のTTの前にクリップスコースが使われることを知らなかったことに化けたのではないでしょうか。

参考 ビル・ハントの走行写真の地点をCregとしているのは正解です
。この地点は間違いなくCreg-ny-Baaで、Creg-ny-Baaを略してCregということがあります。訳者が勝手にクレッグコーナーとしているのは困りものですが。
 

Clypseコース

マン島TTといえばマウンテンコースが有名ですが、1950年代、125㏄、250㏄、サイドカーでクリップスコースが使用されました。125㏄、サイドカーが1954~1959、250㏄が1955~1959です。ですから1959年のホンダのマン島TT初出場はクリップスコース最後の年でした。

 その時の鈴木淳三のこの写真がどの地点で撮影されたのか特定しました。


現在の同地点。歩道の縁石の塗装が消えていますが、それ以外は基本的に昔のまま。


この地点はコース図の赤丸の箇所です。

得点が同点の場合の扱い(3月23、25日追記)

1967年の500㏄クラスはアゴスチーニとヘイルウッドが有効得点46点で同点、優勝回数も5回で同じですが、アゴスチーニがチャンピオンになりました。このことについて「ホンダWGP参戦60周年 挑戦と勝利の軌跡」48頁では「~同点。優勝回数も同じ(5勝)だったが、総合ポイントで6点負け~」とあり、有効得点が同点で優勝回数も同じなら、全レースで挙げたポイント全ての合計点でランキングが決まるとされています。

 有効得点が同点の場合は優勝回数で決まるとされる前は、有効得点の算定対象得点の次の得点で決まっていました。次例で説明します。

・レース数11で有効得点はベスト6戦の成績を算定
・Aライダーの戦績が、1位4回、2位2回、3位2回だったとすると有効得点は8×4+6×2=44点
・Bライダーの戦績が、1位4回、2位2回、4位5回だったとすると有効得点は8×4+6×2=44点
(1位から6位までの各得点は8、6、4、3、2、1

 この場合、有効得点に算入した「優勝4回、2位2回」の次の戦績、つまりAライダーの4点(3位)、Bライダーの3点(4位)が比較されてAライダーがチャンピオンということになります。総合得点はAライダー52点、Bライダー59点ですが。
 そして、これが優勝回数で決まるようにレギュレーションが改訂されたのです。レギュレーションが改訂されていきなり総合得点が出てくることが不自然です。改訂前、改訂後の流れからすると、優勝回数が同じなら「2位の回数」で決まるのが自然です。

 「ホンダWGP参戦60周年 挑戦と勝利の軌跡」のライター氏がどんな資料を読んで「~総合ポイントで6点負け~」と書いたのか知りたいところです。

 これは想像ですが、

〇レギュレーションでは得点の算定法が記述されているだけであって、日本語の「有効」に相当する言葉は使われていない。
「総合得点」という言葉から「総合」された得点に意味があるように読めるが、本来は「単純合計得点」とすべきもの。ランキング表を作成するときに本来の得点(有効得点)だけでなく、単純合計した得点が記載されることがあるだけ。
〇1967年500㏄クラスの場合、優勝回数が同じで単純合計点でアゴスチーニが上位なので、単純合計点で決まったとライター氏が勘違いした。

 なお、1969年のサイドカー世界選手権のランキングを見ると、Schauzu、Linnarzの有効得点は38点と同点で、総合得点はSchauzu38点(有効得点と同じ)、Linnarz50点でしたが、2位の回数(2対1)でSchauzuが上位になっています。

(3月23日追記)
 50 YEARS OF MOTO GRAND PRIX(Hazleton Publishing 1999)では、"Both had won five rounds so second places came into play"とされています。Bothはもちろんアゴスチーニとヘイルウッドです。

(3月25日追記)
 こちらも「総得点」派の記事です。
https://lrnc.cc/_ct/17153034



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