40頁で紹介されたソノートカラーのTZ750、1983年に現物を見たことがある。今回記載されたフレーム番号と同じだった。1996年に別冊モーターサイクリスト誌で紹介されたマシンも同一と思われる。
「TZ750D/E/F~合わせて250台超という生産台数は~」の生産台数はフレーム番号からの推定だろう(フレーム番号は101から始まるので)。一方で写真説明「'77年製造のTZ750Dと考えたい」とあるのはフレーム番号からすると理解しがたい。
この生産台数について「Yamaha: All Factory and Production Road-Racing Two-Strokes from 1955 to 1993」では、フレーム番号を
TZ750D 200101~
TZ750E 200131~
TZ750F 200197~
としている。そして生産台数は、「TZ750Dは30台が販売」、「D/Fはさらに162台が生産」としている。計192台になる。
一方、1978年のモトライダー誌に、3月にヤマハが菅生で行ったTZ750購入チームに対する講習の取材記事が掲載されているが、4台のマシンのフレーム番号は
「~331」から「~341」
だった。1978年3月時点でこのフレーム番号が現認されているのだから、先の「YAMAHA~」の記事は誤りということになる
そして、先のSONAUTOカラーのマシンも、フレーム番号からすると、少なくとも1977年型ではなく1978年型または1979年型(おそらく1979年型)と思われる。
なお、パワージェット付キャブレターについて「後年のTZ500用~を取り付けたものと思われる」とあるが、1979年の実戦写真でもパワージェット付を確認できる。
TZ750Fがパワージェット付キャブレターでないなら、この写真のキャブはヤマハから特定のチームに供給されたものだろう。
(12/4追記)
このマシンのエンジン番号も1983年にメモしたが・・・私がメモをミスしたのでなければ、クランクケースはTZ750D/E/Fではないことになる。
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80頁
「特に当時のヤマハの場合は富士のクラブマンレース~に出場を限定していた」
ヤマハのライダーがファクトリーマシンでクラブマンレースに出場したことがあった?
市販レーサーだが国内市販されていなかったTZ750をファクトリーマシンというのがライター氏の認識かも。
でも
「’72年のカワサキH2Rに続いて’74年にヤマハTZ750が販売されると、エントリー台数も増え~」とあるので、ライター氏の考えは分らない。なお、H2Rは国内市販されず、TZ750の国内市販は1977年からなので、1974年ころは両車ともポイント対象ではなくFL=フォーミュラリブレだった。
80-81頁
「~翌’73年にカワサキの和田正宏H2Rで更新、同時にこのふたりの激しい一騎打ちは歴史的対決として語られている。この戦いにピリオドを打ったのは~河崎裕之だったが~」
二人の一騎打ちはシーズン序盤の鈴鹿の1戦のみ。次の鈴鹿以降、隅谷は欠場、雨の日本GPでは和田は転倒リタイア、久しぶり出場の隅谷はピットインリタイア。という訳で「ピリオドを打ったのは隅谷+ホンダRSC」。
81頁
「●’73年/和田正宏~(日本GP・レース中)」
レース中ではなくプラクティス中。レースは雨だった。
写真説明では
80頁
「’74年の日本GP~(モノサス仕様の0W19と思われる)」
普通の位置にクッションユニットが写っている。
鈴鹿での第1戦と思われる。
81頁上
「これは’79年のTBCビッグロードレース~YZR500と思われる」
1976~1979年に日本国内レースでYZR500が走っていなかったことを知らないのに記事を書かされて可哀そう。
82頁
「この世界GP500に5戦出場し~」
第1戦フランス~第5戦イタリアまで出場したが、第2戦スペインは500㏄クラスがなかったので「4戦」が正解。18頁写真説明で「第4戦イモラを最後に帰国~」とあるのは「500㏄第4戦」の意味でこちらがむしろ正解に近い。
83頁
「~’80年からは全日本500が制定されTZ500が販売される」
1980年は750㏄クラスのままで、TZ500は菅生(第?戦)で姿を現し、少しずつ出走台数を増やし、日本GPでTZ750に乗ったのは佐藤順造だけだった記憶。つまりTZ750も走っていた。
80~83頁のライター氏は
http://jfrmc.ganriki.net/zakkan/kousei/kousei8.htm
で取り上げた記事のライター氏のようで、誤りのパターンが同じように思う。