レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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先日、広州(中国)とシェムリアップ(カンボジア)に行ってきました。
これは中山記念堂(孫文記念堂)。
これはホテルから見た市内で、いつもこんな感じで霞んでいます。これでも北京よりましらしいですが・・・タクシーの運転手がいつも窓を開けて走りますし(私が乗ったタクシーだけではありません)地元の人はあまり気にしていません。そういう私も3.5日間だけでしたので、マスクはせず。
これは広州タワーで、高さ600m、人は450mまで登れます。このタワーの照明はときどき変わります。また、450mのところにフリーフォール等の乗り物もありました。
そしてシェムリアップに移動。シェムリアップ国際空港はこんな感じで、ターミナルは平屋です。もちろん、タラップで旅客機の乗り降りします。
それにしてもタラップを降りた時の暑さといったら・・・34℃くらいあったのではないでしょうか。
これはアンコールワットの周壁(城壁)。
中に入ると中心部が見えます。もちろん、登りました。
仕事で行きましたので、ご紹介できる場所はこの程度です。はい。
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ところで読んでいて、スズキの中野広之氏が書かれたウェブサイト上の記事に似た文がありました。
中野氏は吉村誠也氏のサイトで記事を公開していました(1999年~)。
http://www.europark.com/nakano/index.htm
ところが中野氏が記事を書かれても吉村氏がなかなかアップしてくれないのに業を煮やしたのか、中野氏自らウェブサイトを開設されます。
http://www.iom1960.com/
この本(日本グランプリレース)は2003年10月30日発行ですが、この発行までには開設されていた記憶です。
吉村氏のサイト中の記事と比較してみましょう。
「6月30日朝、浅間山が爆発したが、曇りのため煙が少々見えた程度だった」http://www.europark.com/nakano/1959.htm
「6月30日には、浅間山が爆発したが、曇りのため煙が少々見えた程度だった」(42頁)
「いろいろ新しい問題を抱えているのに、台風7号が近づいたため、雨でテストができず、焦る。13日夜半には台風が直撃し、昌和クルーザーの宿舎の屋根が吹っ飛んだ。樹木も根こそぎ倒れ、コースも水びたしだった」
http://www.europark.com/nakano/1959.htm
「8月12日には、台風7号が近づき、雨でテストができず各社が焦る。13日夜半には、台風7号が直撃し、昌和クルーザーの宿舎の屋根が吹き飛び、樹木も根こそぎ倒れ、コースも水びたしになった」(42頁)
(なお、
http://www.europark.com/nakano/1959.htmでは、上の文の前に「
12日には、他メーカーが顔を見せない早朝から、RB本命車で初の全開耐久テストを始めた。しかし、あいにくの降雨のため、数周でやむなく終了。RA練習車のときには発生しなかったエンジンの “バラバラ(不整燃焼?)” が全車に発生していた。原因はわからなかったが、分解してみて驚いた。ピストンが溶けはじめているものあり、トップリングが折損しているものあり、ピストンピンセットリングが外れて折損しているものありといったありさまだった。まったく、次から次へといろいろ問題が出るものだ。コース解放日はあと6日しかない。ホンダの本命車も姿を現わし、連続走行を始めた。我々もRA練習車で練習開始だ」とあり、12日も走行していた。)
「マン島遠征のため、ホンダチームとスズキチームで日本選手団を結成した。団長は小型自動車工業会の立松さん。5月10日、東京丸の内会館で壮行会を開催。そして翌日にはBOAC機でロンドンへ。当時はヨーロッパへの直通便はもちろん、アンカレッジ経由の北回り線もなく、東京~香港~バンコック~デリー~カラチ~ベイルート~フランクフルト~ロンドンという23時間の長旅だった。ロンドンに1泊したあと、マンチェスターを経て、ようやくマン島に着いた。」
http://www.europark.com/nakano/1959.htm
「マン島出場のため、ホンダチームとスズキチームで日本選手団を結成した。5月10日、東京丸の内会館で壮行会が開かれ、翌日BOAC機にてロンドンに向かった。当時はヨーロッパへの直行便はもちろんアンカレッジ経由の北回り線もなく、東京から香港~バンコック~デリー~カラチ~ベイルート~フランクフルト~ロンドンと移動し、なんと23時間もかかる長旅だった。ロンドンに1泊し、マンチェスターを経て、マン島にようやくたどり着いた」(47頁)
いやよく似てますね。参考文献(156頁)にはどちらのサイトも参考文献になっていませんが・・・
それにしてもこんな本をよく出しますね。著者も出版社も。音楽ライター氏にはとても無理だったのです。まあ、小説家が取材せずにF-1の本を出す(リンク)くらいの国ですから不思議でもないですが。
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日本グランプリレースという本を借りて読んでみました。
いや、ちょっと間違いのレベルが凄いですね。こんな本を図書館に置いていいのでしょうか。
四輪に関する記述はあまりよく分りませんが、二輪に関する記述からすると相当なものだと思います。
〇1955年の浅間高原レースが、本来、「浅間高原自動車テストコース」で行われるはずだったが、コースは完成しておらず、「建設予定地の浅間牧場の敷地をメインに北軽井沢の公道を使って行われた」(35頁)とあるが、実際に「浅間高原自動車テストコース協会」が設立されたのは1956年6月。つまり公道を使用することの様々な制約を逃れるために、テストコースを造ることになったのである。
〇1957年浅間火山レースに生沢徹が125㏄クラスに出場したことになっているが(40頁)、生沢が初出場したのは1958年の第1回モーターサイクルクラブマンレース(浅間)。
〇1959年の「第3回浅間
高原火山レース」が8月22~23日に「今回はアマチュア主体のクラブマンレースへと様相を変え」行われたことになっているが「第3回浅間火山レース」が行われたのは8月23-24日で、併催の「第2回全日本モーターサイクルクラブマンレース」は8月22-24日に行われた。
〇1959年クラブマンレース125㏄で生沢がカブで3位となっているが、生沢はカブでクラブマン50㏄で2位。
〇北野元が1958年の信太山モトクロスで優勝したことになっているが(42頁)、1959年の誤り。
〇44頁の高橋国光、伊藤史朗の記述は1959年の浅間火山レースではなく、1958年のクラブマンレースの記述(しかも誤りあり)。
〇1962年のマン島TTが4、5、6日に行われたことになっているが(50頁)、4、6、8日の誤り。マン島では中1日でレースが行われるのが原則であることを知らない。
いや、間違いをチェックしだすときりがありません。笑ってしまうのは52頁に「スズキのラグナーが独走~ラグナーが転倒したコーナーは、「ラグナーカーブ」と命名された」と、勝手にデグナーカーブをラグナーカーブに改名していることです。
(続く)
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今月号の別冊モーターサイクリスト誌 109頁の記事ですが、
右上の写真説明が3気筒のスズキRP68になっていますね。ライター氏はピストンが2つしか写っていないことは認識しているのですが、「信ずる者は救われる」でもう一つのピストン、クランクは外されていると思っているようです。
この写真のエンジンは2気筒RK67のものです。
RP68の2気筒分のアッパークランクケース(他の1気筒のロアークランクケース)はこちら。
http://jfrmc.ganriki.net/rp68/p8-3.jpg
同ロアークランクケースはこちら。
http://jfrmc.ganriki.net/rp68/p8-1.jpg
RK67(14速型)のロアークランクケースはこちら。
http://jfrmc.ganriki.net/rk/k7-2-4.jpg
ライター氏は、これまでRP68もRK67の写真も見たこともなかったし、見たとしてもどこにクランク等が収まり、動力がどう伝わっていくかも分らないのでしょう。
(2/20加筆)もちろん、「14段!」と書いてあっても写真に写っている変速機は12段であることも。
なお、同頁の記事で、
アンダーソンが1963年からスズキチームに加入したことになっていますが、1961年マン島TT250㏄でスポットでスズキに乗り、1962年シーズンはスズキと契約しています。
http://www.iom1960.com/other/anderson.html
アンシャイトが1966年にスズキチームに加入したことになっていますが、1965年最終戦日本GP50㏄クラスにスズキで出場しています。
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今月号のバイカーズステーション誌の106頁に全50問のクイズがあります。
実のところ、私はこのようなクイズは好きではありません。今の時代、ネットで検索すれば、正解はたいてい分ります。そんな薀蓄をただ並べることに何の意味があるのかと思います。
とはいうものの、少しだけ反応しますと・・・
38問の「エンジンのビッグエンドとは何のこと」の選択答が
A ツインカムの大きいシリンダーヘッド
B コンロッドとクランクピンの間のベアリング
C エンジンが爆発して壊れること
となっています。
おそらくBが答えだと思いますが、実は正しくありません。ビッグエンドがあるからにはスモールエンドもあります。これはコネクティングロッドの「大きい方の端部」、「小さい方の端部」のことで、それぞれ「大端部」、「小端部」という日本語があります。端部=ベアリングではありません。
43門の「マグネシウムの鋳造ホイールとチューブレスタイヤを最初に装着したレースマシンは」の選択答が
A ジョン・プレイヤー・ノートン
B アーターマチレス
C カワサキKR500
となっています。
レース記録ならともかくメカニズムについての「最初」の判断は難しいものです。ましてこの問のように「最初に装着してレースに出場したマシン」ではなく「最初に装着したレースマシン」ですから、レースに出なくてもよいという条件になると世界初を探すことは事実上困難ではないでしょうか。
仮にこの問が「最初に装着してレースに出場したマシン」だったとしても、レース記録にそのことが残っているわけではありませんし、写真が残っていたとしても、キャストホイールの材質や、タイヤがチューブ入がチューブレスかは分りません。何が最初かを特定するのは困難なのです。
http://peterwilliamsmotorcycles.com/innovations/
で、Peter was a pioneer in his field and was
one of the first to design and race
with disc brakes, cast magnesium wheels and tubeless tyres, literally
reinventing the wheel.
とあるのは、そのような意味だと思います。