公開校正 RACERS Vol.76 TZ500 の末尾に次の記事を追加しました。
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参考3 1980年国際A級750㏄のチャンピオン
最終的に鈴木修がチャンピオンと決定されるまで混乱があった。
(1) 1980年日本GP直後に1980年国際A級750㏄チャンピオンは鈴木修と非公式に発表された。
下はライディング1980-9に掲載された日本GP直前のランキング表。〇が付けられた得点は有効得点(ベスト5戦分)に加算されないもの。
(クリック)
これに最終戦日本GPの得点を加算すると鈴木がチャンピオンになる。
(2) 上表の第4戦鈴鹿の水谷の得点が10(3位)、毛利の得点が6(5位)だが、2位の河崎裕之のスズキRGB500(XR27)はファクトリーマシンでありMFJ非公認車両であるにもかかわらず得点対象としたことによる。まず、これを除外する(毛利、水谷の得点が加算)。そして、日本GP国際A級は国際格式(実際はMFJライセンス保有者のみが参加)であるため、世界GP等と同様にファクトリーマシン(MFJ未公認車両)も得点対象とする。
この結果、毛利56点、鈴木55点となり、毛利がチャンピオンに内定する。
(3) 市販レーサーであるスズキRG500は公認車両と認識されていたが、MFJロードレース委員会において、スズキからの公認申請のない非公認車両であることが問題になる。このため、第7戦筑波での得点対象者の1位は酒井清孝(市販RG500)ではなく鈴木になる。また、このレースで水谷は転倒したが、再スタート、TZ350勢の後でフィニッシュしたのだが、750ccクラス3位と認められ10点が加算される。この結果、水谷がチャンピオンとして12月2日に電話通知される。
(4) MFJ競技規則では出場者数によって得点が上位何位まで与えられるかが決まるが、公認車両による出場者数から酒井ら市販RG500出場者が減算されたことにより第7戦の水谷の10点等、下位の得点が抹消される。
(2)の下線部はMFJ競技規則に反するとして、得点対象、出場者数算定から除外される。
これらの結果、12月4日、鈴木がチャンピオンと決定(最終ランキング表)。
参考文献 ライダースクラブ1981-1、1981-2
下はライディング1980-5に掲載されたTZ500の公認公示で、国内出荷台数25台とあるが、この25台が公認の基準。実際には25台も出荷されなかったが、「注文があれば出荷します」という前提である。スズキがRG500の公認申請を行わなかったのは「25台」を厳密に解釈したためと思われる。
「半乾燥重量138㎏」とあるが、一般市販車の公認公示で「半乾燥重量」とされたものが実は乾燥重量だったので、これも「乾燥重量」の誤りと思われる。
「無為な議論」https://jfrmc.ganriki.net/zakkan/bariki.htm
で、ジェット機の速度と推力の関係について、日本航空のウエブサイトにあった「航空実用辞典」にリンクしていましたが、「航空実用辞典」が削除されたようなので、書籍版の「航空実用辞典」から図を引用しました。
この図です。
ホンダRC171で、1962年世界GPは全11戦で350㏄クラスは6戦だけだったことを書きました。
1960年代、全クラス開催のGPはマン島TT、オランダGP(ダッチTT)、ドイツGPぐらいで、GPによっては6クラス中3クラスしか行わないGPもあったのです。
下表は各年ごとの全GP数とクラス別のレース数を整理したものです。
備考1 赤太字は全GPで開催されたもの、青太字は「全GP数マイナス1」、黒太字は「全GP数×2/3以下」。
備考2 ( )がある欄は、( )外:予定数、( )内:実レース数。この差は、出走者が少なく世界選手権とならなかったレース(1963年日本350㏄、1964年日本50㏄)、天候不良による中止(1963年フランス250㏄、サイドカー)による。
1960年代、ホンダ、スズキ、ヤマハが競った125㏄、250㏄のレース数が多いことが分ります。
350㏄クラスは人気がないですね。MVアグスタ350㏄3気筒が登場しホンダとタイトルを争った1965年の翌年(1966年)はレース数が増えましたが、1967年のレース数はまた少なくなりました。
50㏄クラスは初年度こそレース数が多かったのですが、すぐにレース数が減少してしまいました。
500㏄クラスは「最高峰クラス」といわれることもありましたが、1958~1965年はMVアグスタ以外に競争力のあるマシンがありませんでしたし、レース数も多くありませんでした。
一方、250㏄クラスはレース数も多く、1963~1967年にはメーカー間のタイトル争いが演じられました。
1961年終盤~1965年に350/500㏄クラスでMVアグスタに乗っていたヘイルウッドがホンダに移籍した理由の一つは、彼が250㏄クラスで競争力のあるマシンに乗りたかったことです。繰り返しますが「理由の一つ」です。