レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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タイトルの雑誌に、ビル・アイビーの記事があります。
例によって間違いが多いですね。購入しなかったので、記憶を頼りに書くと、
「1967年第3戦フランスGP250㏄」という写真説明は「1967年第4戦マン島TT250㏄」の誤り。
アイビーについて「小さな巨人」、「ジャイアントキラー」と呼ばれたとあるが、初耳。高井幾次郎の「リトルジャイアント」と勘違いしているのでは。
1966年のスズキ125㏄マシンをRT66-Ⅱとしているが、RT67-Ⅱ(スチュアート・グレアム用)、RT67-Ⅲ(片山義美用)の誤り。
1967年125㏄のスズキチームにアンシャイトがいたようになっているが誤り。アンシャイトは50㏄のみの契約で、125㏄クラスは前年から貸与されているRT66を使用し、個人出場でドイツGP、イタリアGPのみに出場した。
1968年の250㏄クラスとチャンピオン決定方法は「二者が1、2位に入賞したレースのレースタイムの合計で決定」ではなく、「二者が同時に入賞したレースのレースタイムの合計」の誤り。1968年250㏄、1972年50㏄クラス、いずれも結果的に「二者が1、2位に入賞したレース~」になっただけ。1953年125㏄のメーカータイトルは、二社が1-3位に入賞したレースのレースタイムもカウントされている。
気筒数制限等が行われたのは、125㏄、250㏄については1969年ではなく1970年から、350㏄、500㏄については1974年から。
アイビーが亡くなったのは、「1969年東ドイツGP350㏄レース当日のプラクティスでの事故によるもので、7月13日」ではなく、「1969年東ドイツGPレース前日のプラクティスで7月12日」の誤り。
ほかにもおかしな記事があったように思いますが、よく覚えていません。
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バイカーズステーション誌に限らず毎月購入しているバイク雑誌はありません。気になる記事があるときだけ購入するだけです。バイカーズステーション2013-3号も購入していました。
で、えのあきら氏の記事ですが、1963年のモト・モリーニ250㏄単気筒レーサーが取り上げられています。
「もしフランスGPが中止にならなかったら...もし最終戦がヨーロッパから遠く離れた地で初開催された日本GPでなければ、タイトルはモト・モリーニの手中になった可能性が大きかったと思います」
1963年の250㏄クラスは全11戦の予定でしたが、フランスGP250㏄クラスは250㏄直前の雷雨で中止され、全10戦になりました。
えの氏が「フランスGPが中止にならなかったら」と書いているのは、フランスGPのコース(クレルモンフェラン)がコ-ナーが多く、モリーニに優利と考えたからなのでしょう。しかし、モリーニが4勝したコースのうち、ホッケンハイム(ドイツ)、モンツァ(イタリア)は高速コースとして知られており、低速コース=モリーニ優位というわけではありません。
実はフランスGP中止云々より大事なことは、「モリーニは1963年のマン島、東ドイツの2戦を欠場しており、このことがタイトル争いに大きく影響した」ことです。
欠場の理由は、資金的な問題とも旅券の問題ともいわれています。
えの氏はこのことを知らなかったものと思われます。
今月号のバイカーズステーション誌にも、えのあきら氏の記事があります。
今回はPiovaticciの記事です。
で1975年50㏄クラスでのPiovaticciの記事ですが、「50㏄クラスでは、2位3位に各2度入賞でライダーズポイント2位となったのです。」
実際の戦績は次のとおりです。
優勝 1回(スェーデン)
2位 3回(ドイツ、イタリア、フィンランド)
3位 2回(オランダ、ベルギー)
4位 1回(スペイン)
(全8戦)
えのあきら氏はどんな資料を見たのか不思議です。
また、氏のイラストで、フェアリング右のゼッケン8の下のスポンサーのステッカーが「MARLIE」と読めますが、「MAHLE」が正解です。明らかに「H」を「R」と誤読してます。こちらの写真を参照。もちろん、MAHLEは有名なピストンの会社です。
http://www.elsberg-tuning.dk/piovaticci.html
ところで「Piovaticci」を「ピオバティ」と表記していますが、「ピオバティチ」とした方がよいと思います。ライダーのLazzariniはそう発音しているように聞こえます。
http://www.youtube.com/watch?v=bQyxE4WypRw (Lazzariniは右の人物)
1分50秒あたりから何回か発音しています。イタリア語で「ci」は「チ」です。
今月号のバイカーズステーション誌に「1950年代のMVアグスタ125ccGPレーサー詳細写真集」という記事があります。で、69頁の記事ですが、
「~夢がかなって(125㏄)チャンピオンになったのは1952年だった。ところがこのころからドイツのNSUが力を増し、1953年はメーカータイトルを守ったものの1954年には両タイトルを奪われてしまう。しかし、MVは見事に巻き返に(原文ののまま)に成功し、1955~1960年まで125㏄クラスを守った」
1955年にMVが125㏄タイトルを奪還できた原因は、「NSUがファクトリーマシンを撤退させたから」です。そして、1955~1960年のうち、1957年はライダータイトル、メーカータイトルいずれもFB-モンディアルに奪われています。
ところで、今回紹介されたマシンですが、私はこの頃のレーサーについてあまり詳しくありません。ただ、68頁等の写真で、フレームのスイングアームピボット付近に「410」というフレーム番号のプレートが貼られていることがわかります。
1983年に開館し1991年頃に閉館した「フジ・モーターミュージアム」に展示されていたマシンのフレーム番号も同じ「410」でしたし、外観もあまり差が認められないので、これらは同じマシンだと思います。
また、69頁に「マリオ・コロンボの著書には」とありますが、この本だと思います。
http://www.amazon.co.jp/MV-Agusta-Mario-Colombo/dp/8879113879
私が購入したのは1992年ですが、気が向いたら確認します。
バイカーズステーション誌に漫画家の「えのあきら」氏の連載記事があります。ちょっと古いですが、今月号の記事に
「(MVアグスタ)350㏄の6気筒は、強敵となった日本車に対抗すべく、多気筒化を試み、1968年に完成したマシ-ンでした。しかし、1969年に行われたレギュレーションの変更により350㏄は3気筒まで、と制限されてしまったため、レースに出場することなく消えた、幻のマシーンとなってしまいました」
とあります。
えのあきら氏は、350㏄の気筒数制限がされたのは1969年と思っています。そして、MVアグスタの350㏄4気筒レーサーが1971年の終盤に姿を現し、1972-74・76年に用いられたことも知らないのです(1972年は3気筒も用いられた)。3気筒に制限されているのなら4気筒がGPで走る訳はないですからね。
えのあきら氏は漫画家ですから、(原稿料をもらって書いた記事であっても)こんなもの、ということなのでしょうが、よく考えれば、この記事はえのあきら氏個人のブログに掲載されたのではなく、雑誌に掲載されたものですし、雑誌編集者がチェックすべきものです。
「漫画家だからこんなもの」ではなく、「雑誌だからこんなもの」と言うべきですね。