1月4日発売のRACERSは、special issueとして、1983年のスペンサーVSロバーツに焦点を当てた記事となっています。ホンダ、ヤマハの日本側の関係者への新たな取材はないようで、スペンサー、ロバーツへの取材+ライター氏の記事で構成されています。
1983年のヤマハ0W70に2種類の後サスペンションがあったことが知られていますが、今回のRECERS 25頁のロバーツ回想記事では「~コースとの相性があるようで、従来のレイダウンとどちらが良いかは毎回両方を試してから決めていた。スパ(注:ベルギーGP)で新しい方を使ったのは覚えている。でも、その次のシルバーストーン(注:イギリスGP)では使わなかった気がする」
とあります。これは
http://jfrmc.ganriki.net/ow70/ow70honbun3.htmで、ロバーツが新型後サスペンション車を用いたのはベルギーGPのみとしたことを一部裏付けています。
一方、29頁のライター氏の記事では「後者(注:新型)がメインで用いられたが、コースによっては前者(注:旧型)も用いられ」とあり、新型後サスペンション車が主に用いられたことになっています。ライター氏がこのように書いた根拠を知りたいところです。
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こちらで取り上げたカーグラフィック誌での宮川秀之氏の回想ですが、今月号もひどいですね。
1980年のGP500最終戦西ドイツGPでコースの安全性を懸念するスズキのルッキネリとロッシについて「とにかくスタートして2周し、後の判断は2人にまかせる。安全運転でいけ。」というような指示を2人に与えるよう現地のスタッフに伝えたこと、そして「レースを放棄するどころか、二人ともしっかり走り、ルッキネリはケニー(ヤマハ)にぴったり食いついて走り2位入賞」とのこと。
ケニー・ロバーツが優勝してルッキネリが2位みたいですが、実はルッキネリが初優勝でロバーツは4位です。そしてロッシは完走せず1周を終えたところでリタイアしています。
1980年の西ドイツGPが行われたニュルブルクリンクの北コースが1980年まで22.835kmで1981年から22.832kmとなったとのこと。
22.832kmは20.832kmの間違いだと思います。
1981年、スズキRGΓ500は第4戦フランスGPで登場、それまではRGB500で走ったとのこと。
RGΓ500は第1戦に登場しています。
1981年のポイントは1位ルッキネリ105点、2位マモラ95点、3位ロバーツ74点とのこと。
マモラは94点です。
こんなにいい加減な記事ばかりですと、どこまで信用していいのかわからない、というか「ほとんど信用できない」レベルだと思います。こんな記事が四輪誌で連載される意味が理解できません・・・ということはありません。雑誌はこんなものです。
ルイジ・タベリといえば1960年代、ホンダ等のライダーとして活躍したスイス人ですね。私は1996年のスズカ・ヒストリックミーティングで間近に見ることができました。
今月号の「風まかせ」にそのタベリの記事があります。細かいことはともかく、一つだけ指摘させていただきます。
「(1965年について)なお、(50cc)日本GPでの優勝は1963年に続いて2度目となり、タベリの日本での知名度は一気に広まった。余談になるが、その一方で、故郷スイスではWGP開催がこのシーズンから突然中止になってしまっていた。その訳はこの年、フランスでの4輪レースでモータースポーツ史上最悪の重大事故が発生、ドライバー、スタッフ、そして観客合わせて80人以上が死亡するという大惨事が起こったためだ。」
二輪のスイスGPが開催されたのは1954年までです。そしてフランスで80人以上が死亡したレースといえば1955年のルマンです。このあまりにも有名な事故を1965年に起きたとする「創造力」豊かな記事を見るのは初めてです。
ちょっと遅くなりましたが・・・
今回は1990-91YZR500特集です。この頃のGPはGP500の黄金時代だと思いますが、その様子がよく捉えられていると思います。細かいところで気になる記述がないことはないのですが、あえてここで触れるほどのことはないでしょう。
ところで、今回、掲載された現存する1990年型YZR500はヤマハが保有するそうですが、日本国内に限っても、他にもあります。
http://www.geocities.jp/noda_keni/y/yzr50090/90yzr500.htm 見る人が見れば、どこで撮影したかは一目瞭然だと思います。