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JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

公開校正 RACERS Volume 70(2)

背表紙

 「~1966年向け6気筒マシンRC166」

 記事では3RC165、RC166とあります。

 「この年のGP250クラス全11戦中10戦に出場し、そのすべてのレースで優勝~」

  「全12戦中10戦」の誤り。ホンダがボイコットした最終戦日本GPをカウントしなかったのかな。
 なお、ヘイルウッドが欠場した第9戦アルスターGP250㏄にグレアムが6気筒で出場したので、ホンダとしては「全12戦中11戦に出場し10勝」

 「~ヘイルウッドは350クラスでも全8戦中7戦に出場し6勝~」

 「全10戦中8戦に出場し6勝(2戦リタイア)」の誤り。
 そもそも「全8戦」なら有効得点はベスト5レースの得点合計、つまり8点✖5=40点になるが、91頁の得点表ではヘイルウッドの得点は48になっている。


8頁

「(1962年)~RC145が開催レース10戦で全勝」

 「開催レース11戦中10戦に出場し全勝」の誤り。

「(350㏄)RC170~RC171~(どちらも250㏄のボアアップ版)」

 RC171はボアだけでなくストロークも長くしている。

「東独のクライドラー」

 「西独のクライドラー」の誤り。

「(1963年)50㏄9戦1勝、125㏄12戦3勝、250㏄9戦4勝」

 50㏄は1戦(最終戦)のみ出場。「250㏄9戦4勝」は250㏄10戦4勝の誤り。


9頁

「(写真3)「スペインGPの250㏄~CR72」

 「スペインGPの125㏄~CR93」の誤り。」

「(写真5)第10戦ではT・プロビーニに敗れる屈辱」

 プロビーニが優勝したのは250㏄第1、2、8、9戦。
 1963世界GPは全12戦で250㏄クラスだけなら全10戦。本誌の「第●戦」は大抵はクラス別の番号だが、本記事の「第10戦」が「全クラス通じての第10戦」なら250㏄第8戦になる。サーキットは高速コースのモンツァなので「パワーに勝るはずのホンダが敗れた屈辱」とライター氏は言いたいのだろうか? それなら第2戦西ドイツ(ホッケンハイム)も高速コースだが。

「(写真6)~RC172は好調で、6勝をマーク」

 「5勝」の誤り。日本GPでの優勝はたった3台しか出走しなかったために世界選手権レースとはならなかった。


10頁
「(1964年)特に250㏄ではフィル・リードとビル・アイビーを~ヤマハ」

 「ビル・アイビー」は「マイク・ダフ」の誤り。アイビーが世界GPでヤマハに乗るのは1965年から。

「(中列、1964年)~350㏄はホンダが制する(このクラスは4連覇)」

 「3連覇」の誤り。

「(1965年)~最終戦の日本GPでは急遽、直前の350㏄レースをもってMVとの契約を終えたヘイルウッド250㏄に起用し~」

 契約期間中のため、ヘイルウッドは事前にMVのボスのアグスタ伯から了承を得ていた。ヘイルウッドによると次のとおり(HAILWOOD by Mike Hailwood and Ted Macauley, Cassell 1968)。
〇契約期間は1966年1月まで
〇アグスタ伯は最初は了承したが、すぐ取り消した。しかし、最終的には了承した。

11頁

「(写真4)ライバルはMVアグスタのヘイルウッドだった。しかし、ヘイルウッドの3勝に対し」

「ライバルはMVアグスタのアゴスチーニ、ヘイルウッドだった。しかし、アゴスチーニ3勝、ヘイルウッド1勝に対し」の誤り。

「(写真)2RC165はこの年の第9戦に投入」

 71頁ではマン島(第5戦)となっており、これが正しい。

「(結果表1965年350、アゴスチーニとヘイルウッドのマシン)MVアグスタ/MZ)」

 「MVアグスタ」の誤り。1964年結果表の「MVアグスタ/MZ」(正しい)をコピペしたのか。

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公開校正 RACERS Volume 70

アマゾン
Amazon.co.jp: RACERS - レーサーズ - Vol.70 (サンエイムック) : 三栄: 本

で内容のごく一部を見ることができます。


54-55頁

レッドマンの写真説明
「なお、'63ダッチTTでのハットトリックは、彼が初めて成し遂げた偉大な記録だった」

 1963年ではなく1964年の誤り。 
 「初めて」とありますが、3クラス制覇ならその横のヘイルウッドに関する記事にあるようにヘイルウッドが1961年に達成済。初めてなのは「1日間でのハットトリック」

 1963年マン島TT350㏄クラス写真説明「RC173」

 RC172の誤り。RC173は1966年型。

「ヘイルウッドとMVの間に契約は残っていたが、それは350㏄クラスで~鈴鹿を走り終えるまでだ。続く250㏄クラスのレースでヘイルウッドは自由の身になるため、ホンダ6気筒に乗ることは契約的に何の問題もなかったのである」

 契約期間中のため、ヘイルウッドは事前にMVのボスのアグスタ伯から了承を得ていました。ヘイルウッドによると次のとおり(HAILWOOD by Mike Hailwood and Ted Macauley, Cassell 1968)。
〇契約期間は1966年1月まで
〇アグスタ伯は最初は了承したが、すぐ取り消した。しかし、最終的には了承した。

「(350㏄レース記述の後)そして250㏄の最初の練習走行を終えたピットには、ヘイルウッドのホンダ6気筒に対するファースト・インプレッションを聞きたい多くのジャーナリストたちでにぎわうことになる

 250㏄クラス最初の練習走行が350㏄レースの後のような記述になっている。350㏄レースは10月23日(土)に行われ、各クラスの公式予選は10月20~22日に行われた。

250㏄決勝で、顔を蜂に刺されるというアクシデントに遭ったレッドマンは欠場~

 250㏄決勝で蜂に刺されて欠場・・・250㏄決勝で、(前日)顔を蜂に刺されたレッドマンが欠場と言いたいようです。

30-31頁
1965年の最終戦、鈴鹿の日本GPに登場したRC148

 手前のゼッケン22のマシンは4気筒の4RC146。


RACERS

(2) RACERS on X: "「ホンダRCレーサー」号の表紙です。今号の主人公は1966-'67年の世界GPを走った250cc6気筒の「RC166」で、エンジン設計者本人による解説、それにともなう写真と図版、さらにはエンジン3D画像も盛り込んで詳解。かくしてホンダの多気筒レーサーは誕生しました――という内容です。(編集カトウ) https://t.co/CdYmKeuMSl" / X (twitter.com)


表紙に「至高のエンジニアリングが生んだ”精密機械”」とあります。「至高」、「精密機械」が使われた記事は大した内容がないことが多いので心配です。

amazonでは
Amazon.co.jp: RACERS - レーサーズ - Vol.70 (サンエイムック) : 三栄: 本

「ホンダは1966年に世界GPの50㏄、125㏄、250㏄、350㏄、500㏄のすべてのクラスでマニュファクチャラータイトルを獲得。他方、125cc、250cc、350ccでもライダーによる個人タイトルを獲りました。このときの一連のマシン群をホンダ社内では“RCレーサー”と呼んでいて、各RCレーサーは50ccが2気筒、125ccは5気筒、250㏄と350ccは6気筒、500ccは4気筒という、当時の二輪では珍しい4ストローク多気筒エンジンで構成されていました。」

 「このとき」は1966年を指すのでしょうが、1966年の350㏄はRC173、4気筒です。「この頃」ならまあまあかなと思います。
 「500㏄4気筒」は珍しくもなんともないですね。



016 THE SCENE from scenes / 1966 GP50――熾烈な戦いの先にあった悲運

 多分、ホンダが日本GPをボイコットしたことでしょう。ホンダに乗り50㏄チャンピオンを争っていたルイジ・タベリにとっては不運だったと思いますが、ホンダにとってはホンダの意志としてボイコットしたのですから「悲運」もへったくれもないと思います。

020 Machine Gallery / 50cc Two Cylinders[1966 RC116]
036 Machine Gallery / 125cc Five Cylinders[1966 RC149]
060 Machine Gallery / 250cc Six Cylinders[1967 RC166]


 cylindersと複数形になっています。RC116を例に取ると、エンジンの種類の示す時はtwo cylinder、「RC116には気筒が2つある」という意味ならRC116 has two cylindersだと思います。この記事の場合は単数形が適切かなと。



026 切磋琢磨したライバル達①小排気量の牙城を築いたスズキ

 50㏄クラス、スズキは1962、63年にクライトラー、1964年はホンダとタイトル争いを演じました。125ccクラスでは1961、62年はホンダ、63年はスズキ、64年はホンダ、65年はスズキがタイトルを獲得しましたが、このスズキが「小排気量の牙城」ですか・・・




090 350㏄6年連続完全制覇の誉れ、500㏄全クラス制覇に向けた最後の砦

「500㏄全クラス制覇」・・・マニュファクチャラーズ選手権と個人選手権の両方という意味なのかな・・・両選手権の区別は「クラス」ではないと思いますが。

「~に向けた最後の砦」というと、ホンダの砦のように読めるのではないでしょうか。「残された最後の砦」ならまだ分ります。

 ただ、「砦」は何かを守るためのものですので、戦闘とは関係ない事柄において「目標とするもの」の比喩表現としてはあまり適当ではないかと思います。


情熱のロードレース Vol.09

はモリワキ特集です。
 まだ、よく読み込んでいないのですが、28頁の佐藤健正さんについて。

 インタビュアー
「~125クラスではチャンピンを獲得されましたよね。」
 佐藤さん
「とは言ってもノービスですからね」

 佐藤さんがノービス125㏄のチャンピオンになったのは1974年です。当時、バイク雑誌でレースの記事はあまりなかったのですが、オートバイ誌掲載の佐藤さんの姿(筑波、優勝)が印象に残っています。ジェットヘルメットでした。

 翌年、ジュニアに昇格し125㏄クラスでランキング4位になり、翌1976年にエキスパートに昇格します。

 ですから、29頁上の写真説明「76年鈴鹿200マイルレース・ノービス125クラスに参戦する健正さん」とあるのは誤りです。そもそも赤ゼッケンですからノービスではありません。

公開校正

最近発売になったものです。

30頁右下写真「マン島TTレースを走る高橋氏(ゼッケン1)」

 この写真は1961年アルスターGP125㏄。

「1966年は出場した5クラス計37戦中29勝を挙げる圧倒的な戦績を収め」

 Honda | MotoGP | Honda World Grand Prix 700勝の軌跡の誤った記事をそのままコピーしたようだ。正しくは「全クラス開催レース数47、ホンダ参加42戦」

31頁「1978年にはHERTは活動を終了。1979年にHRCの前身となる組織で、市販レーサーや~RSC(レーシング・サービス・センター)が活動を引き継ぎ~~~RSC創設の前年、1977年に~」

 RSCの設立は1973年です。HRC | 歴史 | 1980年代 (honda.co.jp)
 なお、法人であるRSCの設立は1973年ですが、その前身のRSC(レーシング・サービス・クラブ)は本田技研工業の一部門でした。

参考 上記「37戦」について

 1966年の開催レース数、ホンダ参戦レース数、ホンダ入賞数、ホンダ優勝は次のとおり。

クラス 開催レース数 ホンダ参戦数 入賞数 優勝数
50 6 5 5 3
125 10 9 9 5
250 12 11 10 10
350 10 8 6 6
500 9 9 6 5
合計 47 42 36 29


 どこから「37戦」が出たのが考える。

 「日本のレーシングモーターサイクルの歴史」(1973八重洲出版)では、レッドマンが転倒負傷したベルギーGPの次のレースについて「その結果第6戦の東ドイツGPのザクセンリンクサーキットにのコース上に現れたホンダは、RC149とRC166のみだった」とあり、ヘイルウッドが出場したのは250㏄のみと誤っている。この記事を引用する例が少なくないので、これでマイナス2(350cc、500㏄)。

 ヘイルウッドが250㏄で8連勝した後のアルスターGPは、ヘイルウッドが欠場しスチュアート・グレアムがホンダ6気筒で出場しリタイアしたので、これをホンダ欠場と勘違いしてマイナス1。

 350㏄クラス、ヘイルウッドがアルスターGPで優勝しタイトル獲得し次戦マン島TTでは1周目リタイアしているので、これを「タイトル獲得後の欠場」と勘違いしてマイナス1。

 マン島TT125でホンダは上位入賞できず、6位にヘイルウッドが入賞したのみだが、これをホンダ欠場と勘違いしてマイナス1。

 合計マイナス5戦で、42-5=37戦 ではないかと思われる。

  あるいは、もっと単純に

●「3位以内入賞数は35。500㏄ベルギーがレッドマンが転倒リタイア、最終戦イタリアでヘイルウッドがリタイアしたので2を足して37」

●開催レース数47を37と誤記。

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