忍者ブログ

JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ヤマハ0W54(1981年型YZR500)(11)

 1981年、0W54に乗るケニー・ロバーツはランキング3位に終わりました。0W54にはチャンピオンマシンになるだけの潜在能力がなかったのでしょうか?


 ロバーツが500㏄世界GPに参戦した6シーズンにおけるチャンピオン、レース数、チャンピオンの出走レース数、得点は次のとおり。

年  チャンピオン レース数 出走数 得点   無得点レース数
1978 ロバーツ    11      11    110          2
1979 ロバーツ    11      10    113           1 
1980 ロバーツ     8         8   87(120)           1
1981 ルッキネリ   11      11    105                2
1982 ウンチーニ   11      11    103              3   
1983 スペンサー    12      12   144(132)        1

   
※( )内は11レース換算値。
※レース数:トップライターによりボイコットされた1979年ベルギー、1982年フランスを除いたレース数。
※無得点レース数:出走(スタート位置に着いた状態)したレースで無得点だったもの。

 チャンピオンの獲得得点(11レース換算)を比較すれば、0W54が用いられた1981年は少ない方です。

 81年、ロバーツの得点は74でしたが、サンマリノを体調不良で欠場、オランダでスタート位置に着きながらブレーキ整備不良でスタートできませんでした。これ以外にも、オーストリアは後サスペンションユニット不調でリタイア、ウェットレースだったスウェーデンでタイヤ選択ミスでリタイアしています。また、フランスで後サスペンションユニットの不調、フィンランドではパワーバルブの故障で、リタイアこそしませんでしたが、低順位になりました。

 0W54といえば、嵩張る重たいエンジンが戦闘力を失わせていたといわれています。しかし、チャンピオンの獲得得点がそれほど多くなかった1981年の世界選手権を争う上では、信頼性の低さ(オーストリア、フランス、フィンランド)と不運(オランダ、サンマリノ)がロバーツの足を大きく引っ張ったと思えてなりません。

PR

ヤマハ0W54(1981年型YZR500)(10)

 4ストロークエンジンではクランクシャフトとシリンダーヘッドの位置が、エンジンの重心高を大きく左右しますが、2ストロークエンジンではシリンダーヘッドは小さく、クランクシャフトの搭載位置が重心高に大きく影響します。

 これは、1980年シーズン前に竜洋テストコースで公開されたスズキXR34(1980年型スズキRGB500)で、前後車軸を結ぶ空色線と、これと平行なクランクシャフト中心を通る黄線を加筆したものです。
 
 そして、80シーズン後に竜洋テストコースで公開されたXR34M2。
  

 そして、ヤマハ0W45(79年型YZR500)の公表写真。斜め前から撮影した写真ですので、黄線はクランクシャフト右端ではなく、その内側のクランクシャフトがあるであろう位置から引いています。
 
 XR34/XR34M2の2軸のクランクシャフトの平均高と0W45のクランクシャフト高はあまり変わらないようです。 

 そして、これは0W54の公表写真に加筆したもの。
 
 0W54の2軸クランクシャフト平均高が0W45より3㎝程度高いように見えます。


 さらに、これは0W54公表写真に前後車軸を結ぶ空色線と、これと平行な変速機カウンターシャフト(出力軸)先端中心(スプロケット中心)を通る白線を加筆したものです。
 
 前クランクシャフト中心が白線より上にあるように見えます。上のXR34、XR34M2(白線は加筆していませんが)の写真と見比べれば、前クランクシャフト位置が高く見えます。

 
各車のタイヤ径が異なること、写真撮影位置が異なり、比較方法が適切ではないことは承知の上であえて言うなら、シーズン当初、0W54エンジン重心の位置が他車より高かった可能性が高いと考えます。
 
 こちら(リンク)で書いたように、実戦ではA~C型フレームが用いられましたが、MOTOCOURSEによると、フランスで、続いてオランダで導入された2種のフレームは、それぞれエンジン搭載位置が下げられたということです。エンジン搭載位置を下げるにしても、チェーンスプロケットが取り付けられる変速機カウンターシャフトの高さは大きく変えられません。搭載位置を下げるなら、変速機カウンターシャフトを中心にエンジン全体を前傾させる必要があります。
 
シーズン前公表写真のマシン、A型ではシリンダーの路面に対する前傾角が30度程度だったものがB、C型では40度程度になったのはこのためです。


 レーシングマシンにとってエンジンの重心位置をどこに置くかが、レーシングマシンのハンドリングに大きく影響することは言うまでもありません。もちろん、エンジンの押しがけ始動のときのライダーの体感重さ(ふらつき)にも影響します。

 ライダーに不評だった0W54のハンドリングの原因の一つは、そのエンジン重心位置だったことは間違いないと思います。そして、それ以外にもいくつか原因として想像できる要素があります。

1 それまでのピストンバルブとは異なる
ロータリーディスクバルブエンジンの出力特性(その特性を調整しきれなかった)
2 長い前後長のエンジンを抱えるフレームの剛性、剛性バランスが並列4気筒車から変化したこと
3 新たに採用した16インチタイヤ

4 81年から倒立になった後クッションユニットの耐久性
 グッドイヤータイヤの性能(1981年限りでレースから撤退)

 1~4、そして重心位置、何れも「準備不足」が共通する要素だと思います。そして、ライバルのスズキXR35(1981年型RGΓ500)より5㎏程度大きな車重は、上の問題点に比べれば取るに足らないと考えています。
(続く)

霧状電解水を用いた空気浄化技術(修正あり)

 最近話題の技術ですが、ちょっと古くて申し訳ないのですが、効果と安全性についてのペーパーを読んでみました。素人の疑問点を書きます。
http://solmind.com/hclo/funnmu/7711.pdf


実験条件は
1 浮遊細菌に対する効果
(1)電解ミスト遊離残留塩素濃度 10±3mg/L
(2)対照 水ミスト噴霧

2 浮遊ウイルス
(1)電解ミスト遊離残留塩素濃度 約5mg/L
(2)対照 ミストなし、水ミスト噴霧

3 アレルゲン物質抗原性
(1)電解ミスト遊離残留塩素濃度 約100mg/L
(2)対照 無処理、水ミスト

 疑問点は
A 狙う効果によって、なぜこんなに条件が異る? ウイルスに対しては5mg/Lで効果があるのに対して、浮遊細菌に対して10mg/Lでないと効果がないのでしょうか?

B 浮遊細菌に関する実験で、対照に「ミストなし」がないのはなぜ? ミストなしでも効果がある?



 安全性試験としてラットの90日間吸入毒性試験を実施しています。

対照群 ユニット内の遊離残留塩素濃度 電解ミスト中の遊離残留塩素濃度
       mg/L           μg/m3・h
対照群     0                                              0
A群     10±5                                         2.3±1.2
B群                  65±15                                     15.0±3.4
C群                 125±25                                    29.0±5.8

 「ユニット」が「電解水霧化ユニット」なら、この濃度は電解水そのものの濃度でしょう。電解ミスト中の遊離残留塩素濃度の単位μg/m3・hは、普通は「濃度〇μg/m3のものを1時間」という意味だと思いますが、90日間の実験のはずなのにどういう意味なのかわかりません。

 「h」を無視して考えますと、上のABCでは単位がmg/Lなのに、こちらは「μg/m3」ですから、百万分の1の濃度です。全く効果がない濃度での吸入実験ということになりますが、意味があるのでしょうか。

 元文献はこちらですので、転記ミスの可能性はあります。
https://ci.nii.ac.jp/naid/10015597365

    どうも同じ「電解ミスト中の遊離残留塩素濃度」であっても、「電解ミスト涙滴中の遊離残留塩素濃度(単位はmg/L(液体)」と「空中の電解ミスト中の遊離残留塩素(単位はμg/m3(空間)」の違いのようです。

 そもそも、この実験方法で何が分るのでしょうか? この方法で、アスベストやPM2.5、窒素酸化物、硫黄酸化物といった大気汚染物質の健康影響を全て評価できるのでしょうか?

 
メーカーさんは、この評価方法だけで「安全」を謳っているようですが、安全の意味を理解しているのでしょうか?


 というわけで、素人には実験の内容、そして実験自体の意義にも疑問だらけのペーパーでした。

ヤマハ0W54(1981年型YZR500)(9)

 RACERS Volume 19(三栄書房2013)によると、81年にヤマハ0W54のライバルとなったスズキXR35(81年型RGΓ500)の半乾燥重量(オイル、冷却水のみ含む)は130.4kg(スチールフレーム型)です。では0W54の半乾燥重量はどの程度だったのでしょうか?

 
RACERS Volume 02(三栄書房2010)に、0W54について次のような記述があります。

「Q17 0W54の性能は前モデルである0W53を凌駕したか? A 最大出力は上がったが、車重も増えた。その重さたるや「開発ライダーの金谷、高井の両氏から”重戦車”と酷評された」と奥氏」

 RACERS Volume 19では
「エンジン形式の変化に伴って重心位置が大きく変わり、それに車重の重さも加わって、なかなか良好なハンドリングを実現できす~」

 これらの記述からすると、0W54の半乾燥重量は相当なものと思われるでしょう。
 
 
ヤマハの市販レーサー・80年型TZ500の半乾燥重量は145kg、ヤマハ0W48の半乾燥重量は135~138kgと思われます(末尾の「参考」)。

 0W54が、0W48をベースにした0W53より重くて「ハンドリングが重戦車」なら、0W54の半乾燥重量は145~150㎏辺りなのでしょうか?


 TEAM SUZUKI by Ray Battersby, Osprey 1982/ Parker House 2008によれば、500㏄第2戦ドイツGPの車検時、スズキの岡本満、Martyn Ogborneが0W54の重量測定を見に行ったところ、136kgだったということです。このとき、0W54に燃料が残っていた可能性もありますから、この数字は「136kg以下」と理解すべきでしょう。

 そして、RACERS Volume 02によると0W60は0W54より車重を10㎏近くダウンということです。0W54の半乾燥重量を136㎏とするなら、0W60の半乾燥重量は127㎏程度になり、それでもXR40(82年型RGΓ500)より6㎏程度重かったことになります。0W54の半乾燥重量を145~150㎏と仮定するなら、82年にもなって、ヤマハ500(0W60)がスズキ500より15~20㎏も重かったことになってしまいます。

 これらのことから、TEAM SUZUKIの記述は妥当であり、0W54はスズキXR35のせいぜい5㎏増し程度の半乾燥重量で、0W48とほぼ同じだった考えます。XR35のスチールフレームに対して0W54はアルミフレームですから、エンジン単体の重量差は8㎏程度でしょうか。

 冒頭のRACERS Volume 02の記述のうち、金谷、高井の「重戦車」評価はライダーの感覚評価(官能評価)ですが、「車重も増えた」はライター氏の想像のようです。

 0W54のハンドリングに対するライダー(ロバーツを含む)の評価が低かった原因は、その車重によるのではないのです。
(続く)
・・・・・・・・・・
参考
 ヤマハの市販レーサー・80年型TZ500の公表重量は138㎏で、水・オイル4kg、フェアリング3kgを足すと半乾燥重量145kgになります。1980年日本GPで3位入賞した水谷のTZ500のレース後の車重が147kg、レース前日(土曜日)の車検時の糟野のTZ500が145kgという数字がこれを裏付けます。

 一方、1980年日本GPで優勝した高井のヤマハ0W48はレース後に142kgでした。高井は独走、水谷は転倒し再スタートしての追い上げで、二人のマシンの燃料消費量に差があるでしょうから、0W48の半乾燥重量は135~138kg程度だと思われます。http://jfrmc.ganriki.net/ow48/ow48-1.htm

鈴鹿8時間耐久レースの記事

 バイク業界では珍しくないレベルの記事だと思います。ライター氏、翻訳者の両方の責任のようです。
https://www.as-web.jp/bike/585007?all


1979年
 「彼らは両者とも同じ周回でフィニッシュし、そのうち3周でレースレコードを破った。」

 多分、翻訳者がレースと日本語を知らないのだろうと思いますが、「前年の優勝記録194周を3周上回った」ことを指しているのだと思います。

ホンダのRSC(レーシング・サービス・センター)の仕事ぶりを証明した。同センターは耐久およびTT-F1クラスのレースに参戦するプライベートチームを支援するために設立された。」

  ホンダ技研の一部門だったRSC(レーシング・サービス・クラブ)が別会社のRSC(レーシング・サービス・センター)になったのは1973年ですが、その頃は、CB500Rによるレース活動、耐久レーサーの製作、モトクロス、そして様々なキットパーツ販売が主業務でした。1973年、CB125Sのキットパーツ装着車がノービス、ジュニア、セニア125㏄のタイトルを手にしています。OxleyはRSC設立を1979年と思っているのでしょうか。

1981年
 「鈴鹿8耐は、1980年にFIMクーペエンデュランスから世界耐久選手権に昇格。その年のファステストラップはイギリス人ライダーのハスラム/ジョイ・ダンロップ組がRS1000で出している。しかし、彼らはクラッシュとエンジントラブルのためリタイアを喫した。翌年の1981年~」

 1979年の鈴鹿8耐がFIM Coupe d'Enduranceの1戦だったように書かれていますが誤り。1979年の鈴鹿8耐久はFIMカップとは関係ありません。

 1980年、ホンダ・ブリテンでハスラムと組んだのはロジャー・マーシャルで、ダンロップは1981年にハスラムと組んで出場、リタイアしました。

 「彼らはRS1000で凄まじい速さを見せ、2周の差をつけて優勝を果たした。」

 公式記録では「3周」です。
https://www.suzukacircuit.jp/motorsports_s/library/img/history/1981-final.gif


 1981年の優勝周回数は199周で前年の200周を下回りました。優勝者の周回数は1978年から194→197→200→199で、前年の記録を下回ったのはこの年が初めてです。「凄まじい速さ」は絶対評価ではなく、この年限りの相対評価です。

1982年
6時間後にレースは安全上の理由で中止された」

 8時間の予定でレースが始まり6時間後に中断したかのように書かれていますが、誤り。悪天候によりスタート時点で6時間に短縮されていました。

飯嶋茂男/萩原紳治組は、2位の伊藤裕之/吉村俊宏組に28秒差をつけて」

 0.28秒差の誤りです。公式記録はこちら。
https://www.suzukacircuit.jp/motorsports_s/library/img/history/1982-final.gif


 
この頃、8耐をよく見に行ってました。1981年、ダンロップの転倒した場所は、ライダースクラブ誌ではヘアピンでしたが、正しくはヘアピン手前の右コーナーです。レース中盤、転倒してヘアピン少し手前のコース内側のガードレール辺りまでマシン、ライダーが飛んできた光景が記憶にあります。拍手に送られて再スタートし、レースを継続しましたが、ゴール直前でエンジン故障でストップ。184周して14位でした。
 実はこの年、ダンロップにサインを頂戴していたのです。そんなこともあって、あれから39年経っても転倒シーンがはっきり記憶に残っているのでしょうか。

 1982年は仕事の都合で行けませんでしたが、行ってたらその日のうちに帰宅できたかどうか。




 


カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
3 4 5 8
9 11 12
16 17 19
24 26 27 28

リンク

カテゴリー

フリーエリア

最新CM

[02/21 野田]
[02/21 TFR_BIGMOSA]
[02/06 Kuboi]
[02/06 Kuboi]
[02/01 野田]
[02/01 Kuboi]
[01/19 野田]
[01/18 Kuboi]
[01/16 野田]
[01/16 野田]

最新記事

最新TB

プロフィール

HN:
野田健一
性別:
男性

バーコード

RSS

ブログ内検索

アーカイブ

最古記事

P R

カウンター

アクセス解析