レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
4ストロークエンジンではクランクシャフトとシリンダーヘッドの位置が、エンジンの重心高を大きく左右しますが、2ストロークエンジンではシリンダーヘッドは小さく、クランクシャフトの搭載位置が重心高に大きく影響します。
これは、1980年シーズン前に竜洋テストコースで公開されたスズキXR34(1980年型スズキRGB500)で、前後車軸を結ぶ空色線と、これと平行なクランクシャフト中心を通る黄線を加筆したものです。
そして、80シーズン後に竜洋テストコースで公開されたXR34M2。
そして、ヤマハ0W45(79年型YZR500)の公表写真。斜め前から撮影した写真ですので、黄線はクランクシャフト右端ではなく、その内側のクランクシャフトがあるであろう位置から引いています。
XR34/XR34M2の2軸のクランクシャフトの平均高と0W45のクランクシャフト高はあまり変わらないようです。
そして、これは0W54の公表写真に加筆したもの。
0W54の2軸クランクシャフト平均高が0W45より3㎝程度高いように見えます。
さらに、これは0W54公表写真に前後車軸を結ぶ空色線と、これと平行な変速機カウンターシャフト(出力軸)先端中心(スプロケット中心)を通る白線を加筆したものです。
前クランクシャフト中心が白線より上にあるように見えます。上のXR34、XR34M2(白線は加筆していませんが)の写真と見比べれば、前クランクシャフト位置が高く見えます。
各車のタイヤ径が異なること、写真撮影位置が異なり、比較方法が適切ではないことは承知の上であえて言うなら、シーズン当初、0W54エンジン重心の位置が他車より高かった可能性が高いと考えます。
こちら(リンク)で書いたように、実戦ではA~C型フレームが用いられましたが、MOTOCOURSEによると、フランスで、続いてオランダで導入された2種のフレームは、それぞれエンジン搭載位置が下げられたということです。エンジン搭載位置を下げるにしても、チェーンスプロケットが取り付けられる変速機カウンターシャフトの高さは大きく変えられません。搭載位置を下げるなら、変速機カウンターシャフトを中心にエンジン全体を前傾させる必要があります。
シーズン前公表写真のマシン、A型ではシリンダーの路面に対する前傾角が30度程度だったものがB、C型では40度程度になったのはこのためです。
レーシングマシンにとってエンジンの重心位置をどこに置くかが、レーシングマシンのハンドリングに大きく影響することは言うまでもありません。もちろん、エンジンの押しがけ始動のときのライダーの体感重さ(ふらつき)にも影響します。
ライダーに不評だった0W54のハンドリングの原因の一つは、そのエンジン重心位置だったことは間違いないと思います。そして、それ以外にもいくつか原因として想像できる要素があります。
1 それまでのピストンバルブとは異なるロータリーディスクバルブエンジンの出力特性(その特性を調整しきれなかった)
2 長い前後長のエンジンを抱えるフレームの剛性、剛性バランスが並列4気筒車から変化したこと
3 新たに採用した16インチタイヤ
4 81年から倒立になった後クッションユニットの耐久性
5 グッドイヤータイヤの性能(1981年限りでレースから撤退)
1~4、そして重心位置、何れも「準備不足」が共通する要素だと思います。そして、ライバルのスズキXR35(1981年型RGΓ500)より5㎏程度大きな車重は、上の問題点に比べれば取るに足らないと考えています。
(続く)
バイク業界では珍しくないレベルの記事だと思います。ライター氏、翻訳者の両方の責任のようです。
https://www.as-web.jp/bike/585007?all
1979年
「彼らは両者とも同じ周回でフィニッシュし、そのうち3周でレースレコードを破った。」
多分、翻訳者がレースと日本語を知らないのだろうと思いますが、「前年の優勝記録194周を3周上回った」ことを指しているのだと思います。
「ホンダのRSC(レーシング・サービス・センター)の仕事ぶりを証明した。同センターは耐久およびTT-F1クラスのレースに参戦するプライベートチームを支援するために設立された。」
ホンダ技研の一部門だったRSC(レーシング・サービス・クラブ)が別会社のRSC(レーシング・サービス・センター)になったのは1973年ですが、その頃は、CB500Rによるレース活動、耐久レーサーの製作、モトクロス、そして様々なキットパーツ販売が主業務でした。1973年、CB125Sのキットパーツ装着車がノービス、ジュニア、セニア125㏄のタイトルを手にしています。OxleyはRSC設立を1979年と思っているのでしょうか。
1981年
「鈴鹿8耐は、1980年にFIMクーペエンデュランスから世界耐久選手権に昇格。その年のファステストラップはイギリス人ライダーのハスラム/ジョイ・ダンロップ組がRS1000で出している。しかし、彼らはクラッシュとエンジントラブルのためリタイアを喫した。翌年の1981年~」
1979年の鈴鹿8耐がFIM Coupe d'Enduranceの1戦だったように書かれていますが誤り。1979年の鈴鹿8耐久はFIMカップとは関係ありません。
1980年、ホンダ・ブリテンでハスラムと組んだのはロジャー・マーシャルで、ダンロップは1981年にハスラムと組んで出場、リタイアしました。
「彼らはRS1000で凄まじい速さを見せ、2周の差をつけて優勝を果たした。」
公式記録では「3周」です。
https://www.suzukacircuit.jp/motorsports_s/library/img/history/1981-final.gif
1981年の優勝周回数は199周で前年の200周を下回りました。優勝者の周回数は1978年から194→197→200→199で、前年の記録を下回ったのはこの年が初めてです。「凄まじい速さ」は絶対評価ではなく、この年限りの相対評価です。
1982年
「6時間後にレースは安全上の理由で中止された」
8時間の予定でレースが始まり6時間後に中断したかのように書かれていますが、誤り。悪天候によりスタート時点で6時間に短縮されていました。
「飯嶋茂男/萩原紳治組は、2位の伊藤裕之/吉村俊宏組に28秒差をつけて」
0.28秒差の誤りです。公式記録はこちら。
https://www.suzukacircuit.jp/motorsports_s/library/img/history/1982-final.gif
この頃、8耐をよく見に行ってました。1981年、ダンロップの転倒した場所は、ライダースクラブ誌ではヘアピンでしたが、正しくはヘアピン手前の右コーナーです。レース中盤、転倒してヘアピン少し手前のコース内側のガードレール辺りまでマシン、ライダーが飛んできた光景が記憶にあります。拍手に送られて再スタートし、レースを継続しましたが、ゴール直前でエンジン故障でストップ。184周して14位でした。
実はこの年、ダンロップにサインを頂戴していたのです。そんなこともあって、あれから39年経っても転倒シーンがはっきり記憶に残っているのでしょうか。
1982年は仕事の都合で行けませんでしたが、行ってたらその日のうちに帰宅できたかどうか。