セントラルサーキット(兵庫県)で行われたClassic RoadRace FreePractice 3を見てきました。
1980年以前のマシンによる走行会で、昨年秋が1回目、今年4月が2回目で今回が3回目です。
走行マシンリストは次のとおりです。On Any SANDA | Home
3 CB125JX / 4 CB125JX / 5 Aermacchi alla d’oro /6 AT1 / 8 Aermacchi alla d’oro / 9 BSA GoldStar /
10 CB77 /11 Triumph Bonnevile / 14 CB77 / 15 CB77 /17 Ducati250 / 19 CB125JX /20 Rs750D + G50 /21 CB250 /22 CB125JX /23 CB77 / 24 MTR125 /25 KX125R / 26 C100R /
33 GB400 / 37 CB90 /38 CB160 / 39 BSA GOLDSTAR /40 HT1 / 44 Seeley Westlake /49 CS90R / 50 CB93 / 58 MT125R /60 CB125JX / 61 Ducati MHR / 64 LAVERDA1000 /66 CB450+G50 / 70 Ducati desmo/ 71 CB750F /72 CB72 / 86 CB72 / 89 CB77 /90 Norton Manx / 93 CB125JX /122 ULSUTER / 94 TA125 /135 CB93 / 144 TA125 /153 Ducati mark3 / 201 TD3 / 310 GB500 / 391 TA125 /
で、私にとってなつかしい排気音を聞くことが出来ましたが、他にスズキM40、スズキRK66(1966年型50㏄2気筒)、ヤマハTZ500J(1982年型市販レーサー)が姿を見せエンジン始動しました。
これはTZ500Jと和歌山利宏さん。
和歌山さんについてはこちら。和歌山利宏 - Webikeプラス 雑誌等でお顔は記憶にありましたが、最近は見ていなかったので、今日、すぐには分りませんでした。
私が和歌山さんの名前を記憶したのは1978年鈴鹿8時間耐久レースの時のような記憶です。阿部三吉さんと組んでTZ350改373㏄に乗り7位でした。
というわけで私にとって期待以上のイベントになり、天気も曇り時々晴れで過ごしやすく朝から夕方まで楽しむことができました。
M40についてはこちら。Classic Motorcycling 第2号に掲載の「Suzuki 50 単気筒」ー2 (iom1960.com)
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マン島クリプスコース (ganriki.net)
の末尾に次の文を追加しました。
・・・・・・・・・・・
「ホンダオートバイレース史」(中沖満、三樹書房2016)
143頁「(1959年)ホンダは~ジェフ・デュークを丁重に招いて試乗してもらう」
151頁「(1959年)~日本で初めてのGPマシンを「まあいいだろう、グッドだ」と言ったデュークの言葉を単なる社交辞令として受け取るべきではなかった。それがたとえ1500メートルのストレートを走っただけで「マン島TTへ出るのだ」という日本人を「何を言っているんだ!」とデュークがなかば呆れて言ったとしてもだった」
デュークの来日は1960年4月なのに、本書では1959年のことになっている。そして、グランプリ・イラストレイテッド1987-10に中沖満による次の記事がある。これはホンダの社員ライダーで1960年にマン島TTレース等に出場した島崎貞夫(故人)へのインタビューを元にしたもの(A~Cは私が分割したもの)。
A マン島用の125㏄が完成したとき、ホンダはジェフ・デュークを丁重に荒川に招き、試乗とアドバイスを求め、それに対しデュークは、「まァいいだろう」と答えた
B 僅か1,500mの直線を朝から晩まで走ることで、マシーンとライダーを鍛え、それだけでマン島に行く、という無謀さに充分な社交辞令をもって答えながら
C デュークは『1冊の教科書』(注:マウンテンコースのガイドブック)を渡した。(島崎氏)「これがそうです。私の20代の宝物のひとつです」(日本語に訳したもの)
A、Bは1959年TTレース出場の前のことであり、ここでも中沖はデュークの来日を1959年と勘違いし、「ホンダチームはクリプスコースが使用される1959年マン島TTの前にデュークの教科書(マウンテンコースのガイドブック)を入手しライダーが勉強した」と読める記事を作成したのだろう。
そして、この誤った内容が英訳されOxleyに伝えられ、Oxleyがさらに「ホンダチームは1959年にマン島に行って初めてクリプスコースが用いられることを知った」を加え記事にしたのだろうか?
なお、私は、1960年4月にホンダチームがデュークの教科書をデューク自身から入手したのかどうかすら疑わしいと考えている。
1960年代に活躍したオランダ人ライダーで、ヤマハファクトリーマシンに初めて乗った外国人ライダーです。オランダ語ではgはhに近い発音のようですが、こちらでは「キース・ファン・ドンゲン」と表記しています。
Cees Van Dongen - レース情報 | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com)
下の動画(28秒から)では「ケース・ファン・ドンガン」と聞こえますので、日本語表記として「キース・ファン・ドンゲン」で問題ないと思います。
で、こちらの写真
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/riders/cees_van_dongen/img/pic_photos_cees_van_dongen_01.jpg
で、ドンガンがヤマハRD56(250㏄2気筒)に乗っていますが、いつ撮影されたものか分りません。
ドンガンが1964年オランダGPのプラクティスで1964年型RD56に跨っている写真がありますが、上の写真の前フォークは1967-68年のRD05A(250㏄V型4気筒)のもの※のようです。ですからこの写真、1967年以降ではないかと思うのですが・・・
※カヤバ製。ただし、フィル・リード、ビル・アイビーはチェリアーニ製を選択した。