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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

GRAND PRIX ARCHIVES 04 ドゥーハン無双からロッシの時代へ

を買いました。1996~2001年が取り上げられていますが、私にとっては1996年日本GP、2000年日本GPでの阿部典史の優勝が昨日のように思い出されます。

 1995年、不甲斐ない成績だった阿部は1996年第1戦、第2戦、第3戦日本GP予選でも不調でしたが、日本GP決勝では見違えるような走りで、終盤は独走で優勝したのです。阿部がフィニッシュしたとき、私も涙が出てきました。

 2000年日本GPでは、阿部はケニー・ロバーツJrとの接戦を制して優勝、これが阿部の最後のGP優勝となりました。

 これらのレースの写真も当然本書に載っています。ただ、14頁の表彰台の写真は1996年日本GPではなく1996年イギリスGPです。阿部の皮ツナギに「Marlboro」の文字がないので日本GPではないことがすぐ分ります。

 2分33秒あたりから日本GP表彰台の写真。

 そして、表彰台に少し写る

BR
GR
ONIN

の文字で

BRITISH
GRAND PRIX
DONINGTON
と分ります。6-7頁のイギリスGP表彰台の写真の後に撮影されたものです。

 それにしても、2001年ですら24年も前のことになりますが、歳をとると昔のことが本当に懐かしく思い出されますし、こういう本を出してくれることに感謝します。このシリーズは4冊目ですが、続編(2002~)も出してくれると嬉しいです。

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ヴィッツ1.0F(CVT)とヤリス1.5X(6MT)の燃費

 燃料補給毎に走行距離と燃費計の数値を記録しているので、年毎に整理しました。

〇青線は年間平均燃費(満タン法)、黒線は年間最高燃費(燃料補給毎)、縦棒は年間走行距離
〇ヴィッツの燃費計の数値は満タン法燃費より5%高く、ヤリスでは同様に8%高い。年間最高燃費は、この数字を用いて燃費計の数値を満タン法燃費に換算したもの

〇年間は各年1月以降最初の給油時から年内最後の給油時
〇ヴィッツの2015年は2月が初給油、2023年は8月が最終給油、ヤリスの2023年は9月初給油、2025年は8月が最終給油


 年間平均燃費は、その年の運転パターンによって大きく影響されるので、あくまで参考ですが、各車の年平均値の最高値ではヤリスが1.9km/L高い数字です。

 年間最高燃費ではヤリスが1.3km/L高い数字です。

 ヴィッツ1.0FのJC08モード燃費は21.6km/L、ヤリス1.0XのWLTCモード燃費は20.2km/L、ヤリス1.5XのWLTCモード燃費19.0km/L(6MT)、21.3km/L(CVT)です。

 おそらくヴィッツ1.0FのWLTCモード燃費はヤリス1.5X(6MT)より少し高いと思われますが、実燃費では逆の結果になりました。

 WLTCモード燃費は、動力計上でWLTCモードで疑似走行した時の燃費であって、実走行条件での燃費を保証するものでないのです。



VITZ 1.0Fの燃費

YARIS1.5X6MTの燃費


 

1979年の全日本選手権国際A750㏄(2)

1979年の全日本ロードレース選手権 - Wikipedia で、1979年の国際A750各レースの勝者を次のとおりとしています。
 

 第9戦勝者の金谷秀夫にが付いています。これは「混走のフォーミュラ・リブレ(FL)、全日本選手権ポイントの対象外」ということですが、誤りです。金谷が乗ったYZR750(0W31)はFIM・F750公認車両であるヤマハTZ750のエンジンがベースでフレームがTZ750と異なりますが、国際A750ではフレーム変更が認められているので得点対象です。

 また、第3戦筑波の750㏄出場はスズキの2人(FL)だけでしたが、総合5、6位(750㏄1、2位)でした。


 次にWikipediaにあるランキング表。


 例によって得点対象でない入賞の記載がない等の問題があるため、修正してみました。

1979年の国際A750


 当時のライダースクラブ誌、モトライダー誌を参考にしました。

 筑波のレースでの公認車両等による出場は全くありません。第2戦鈴鹿、第7戦菅生の出場者は上表のとおりです。第6戦鈴鹿の公認車両等による出場者は上表以外に何人かいます。第9戦鈴鹿では芳賀信二(TZ750)がスタート直後の写真に写っていますが、他にも750㏄クラスのライダーがいるはずです(そうでないと6位まで得点が与えられない)。

 なお、河崎裕之の得点「13」はMFJの誤りです。河崎が乗ったスズキRGB500(XR27)はMFJ公認車両でもFIM・F750公認車両でもないのでMFJ競技規則上は明らかに得点対象ではないのですが、「日本GPは国際格式のためFIM・F750(1979年はマシンの由来制限なし)と同様に取り扱う」というMFJ競技規則を無視した理由で得点対象としたようです。
  当然、日本GPで4位以下だったライダーの得点も誤りです。

 さて、スズキファクトリーマシンが8戦中5戦で走ったことは評価すべきだと思いますが、それにしても750㏄クラスの出場者があまりにも少なく、「これが選手権ですか?」と言いたくなるようなものでした。

 これが1980年のヤマハTZ500、スズキRG500(1981年型から公認車両)の市販以降、台数が増加していきます。

 台数が増加した要因として、月刊ライダースクラブの発刊もあると思います。それまで、雑誌の国内レース記事は少なかったのですが、ライダースクラブは全日本選手権の記事もあり、1980年からさらに頁数も増加しました。そのためにライダー、チームへの援助者も増加したのではないでしょうか。私が「くるまのオオス」、「タカハシタイヤサービス」を知ったのもこの頃です。



 

1979年の全日本選手権国際A750㏄

 1979年のロードレース全日本選手権の日程です。このうち、第4戦は国際A750・350の開催予定はありませんから、国際A750・350は全8戦です。

 
 得点対象は公認車両による出場に限られますが、得点が与えられるのは出場者が5台以上の場合です。

 で、実際に得点が与えられたのが第6戦と第9戦だけでした。第1戦、第8戦は750ccの出場者がゼロでしたし、750㏄出場者があったレースでも、(例えば)第2戦では750㏄クラス公認車両の出場は3人だけで、これに非公認車両(FL)の出場が2人加わっただけでした。 
 第3戦、第5戦ではFL750出場が2人あっただけで、(雑誌記事からすると)公認車両の出場はゼロだったようです。

 全日本選手権といいながらA750は「これが選手権ですか?」と言いたくなるような状況でした。

 この状況が大きく変えたのが1980年のヤマハTZ500市販(当初から公認車両)、スズキRG500市販(1981年型から公認車両)で、1980年まで750・500混合レースからだったものが、出場台数が増加もあって、1981年から750㏄クラス改め500㏄クラス単独レースになったのです。


 

Jack MiddelburgのTZ500

https://jfrmc.ganriki.net/ow48/ow48-2.htm

の最後に「Jack MiddelburgのTZ500」を加えました。
 
 ミドルブルフのチームはI.M.N.(Inter Motor Nederland)NVです。

 ヤマハ・モーター・ヨーロッパNVがヤマハのヨーロッパ総輸入元で、各国の支社、別法人が輸入元で、オランダ輸入元は(ホンダ輸入元だったこともある)Het Motorpaleisでした。

 これからI.M.N.が分離した形です。このI.M.N.がYamaha Motor Nederland BVとなり、現在はヤマハ・モーター・ヨーロッパNVの支社となっています。


 Het MotorpaleisとI.M.N.のボスはハンス・モーカルクです。

Het MotorpaleisとHans Moerkerk


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