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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

1961年ドイツGP125㏄6位は誰?

1961年ドイツGP125cc6位は誰? (ganriki.net)

に次の文を追加しました。

(8)島崎自身は次のように回想していた。
 「やはりホッケンハイムは忘れられません。タベさんはちょうど私くらいの体格でした。前に出たかったのですが、私のマシーンはカウルの穴が小さいままだったので、ヒートしてしまって、前に出ることが出来ませんでした」(グランプリ・イラストレイテッド1987-11)。

 この記述は、ドイツGP125㏄5位がタベリであること、右上写真のRC144のフェアリング(カウル)形状と一致する。


 当時のFIMはいい加減で、例えば

〇1967年日本GP50㏄で優勝した伊藤光夫が年間ランキングから漏れていた。
〇1964年に改定したレギュレーションをフランス語のみで発行し、英語版を発行しなかった(1967年250㏄のチャンピオン決定の混乱を招いた要因)。

りしています。ですから島崎→高橋の取り違えも十分あり得たことです。
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ホンダF-1(1960年代)とクーパー・クライマックス

誤った歴史 (ganriki.net)

の末尾に以下の文を追記しました。クーパーからホンダへの出荷が1961年12月ということと符合します。



2024.6.16追記
 「語り継ぎたいこと-チャレンジの50年」(本田技研工業1999)274頁)によれば、クーパークライマックス1.5ℓを入手したのは1962年5月の半年ほど前とのこと。

 

ホンダオートバイレース史(三樹書房2016) (2)


147頁「荷物にもブレザーにも日の丸をつけて行かなかったという」
「オリンピックでもそうだが、何が何でも日の丸、日の丸で行くのは考えものだという思いが宗一郎氏にはあった」
「~日の丸を仰々しくかかげて行くことはない。ホンダの名前とマークだけで行け。ということだったのである」

 日本人ライダーのヘルメットには日の丸のステッカーが貼られていたし(同書155頁写真)、マシンのシートストッパーにも日の丸のステッカーが貼られていた。
ヘルメットの写真は マン島クリプスコース (ganriki.net)
シートストッパーの写真  https://msmproduction.s3.eu-west-1.amazonaws.com/s3fs-public/uploads/2015/08/Honda-1959-BobMcIntyre-RC142.jpg

Isle of Man: N Taniguchi, one of the members of the Japanese motorbike team here for the TT races has a technical discussion with the chief mechanic. They are riding Honda machines in the races. 27th May 1959 Stock Photo - Alamy







ホンダオートバイレース史(三樹書房2016)

  この本は中沖満氏(故人)が「スポークホイール」(エヌ・エス出版)に連載していた記事を出版社がまとめ、それに出版社が写真、解説文を追加したものです。

 という訳で、中沖氏の記事の誤り、勘違いもそのままですし、解説も誤りがありますので、私が某記事で書いた「昔も今も誰かが間違えれば皆間違えるし、さらに間違いを増幅していく」の典型本になっています。

例えば
143頁
「(1959年、マン島TTレース初出場前)ホンダはノートン・マンクスで~マン島TTを連続制覇した名手、ジェフ・デュークを丁重に招いて試乗してもらう」


とあります。デュークの来日は(1959年ではなく)1960年、モーターサイクル出版社(現・八重洲出版)の招きによるもので、デュークは各社を訪問しました。これは1960年4月にスズキを訪問し、1960年マン島TT出場予定マシンに跨っているところ(試乗もした)。デュークの後ろの皮つなぎ姿は伊藤光夫。

1960-TTレ-ス初出場 本文 (iom1960.com)

 これはホンダの荒川テストコースを訪問した時のもので、1960年型250㏄(RC161)が写っている。
th_fH_09-HSC.jpg (1200×799) (mc-web.jp)

 中沖氏の大元の記事はグランプリ・イラストレイテッド1987-10だと思われます。ホンダの社員ライダーで1960年にマン島TTレース等に出場した島崎貞夫氏(故人)へのインタビューをもとにしたもので、次のように書かれています(A~Cは私が分割したもの)

A マン島用の125㏄が完成したとき、ホンダはジェフ・デュークを丁重に荒川に招き、試乗とアドバイスを求め、それに対しデュークは、「まァいいだろう」と答えた

B 僅か1,500mの直線を朝から晩まで走ることで、マシーンとライダーを鍛え、それだけでマン島に行く、という無謀さに充分な社交辞令をもって答えながら(Cに続く)

C デュークは『1冊の教科書』を渡した。(島崎氏)「これがそうです。私の20代の宝物のひとつです」(日本語に訳したもの)

 A、Bは1959年TTレース出場の前のように読めますが、Cは1960年TTレース出場前です。1959年のマン島TT125㏄はマウンテンコースでなくクリプスコースでしたし、島崎氏は1960年が初参戦なのですから、1960年出場前でないとマウンテンコースのガイドブックを読む意味がありません。

 Cがなぜか中沖氏には1959年出場前のことになってしまい、A、Bを作文したのではないかと思われます。

 また、私が 
マン島クリプスコース (ganriki.net) で書いた、イギリス人ジャーナリストによる「1959年、ホンダはマン島に行って初めてクリプスコースが用いられることを知った。デュークのマウンテンコースのガイド本で勉強していたのに」も、大元は中沖氏の記事の可能性があると思います。





 

ヤマハRZ250の商標登録

JFRMCブログ 2023年11月17日 (tou3.com)

で「審査中」としていましたが、5月に拒絶されたようです。

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