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JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

レーシングマシンへの八つ当たり

メリージェーン on Twitter: "この動画を観た感想が「暴力性高そう」なのが悲しいね プロのテニスプレイヤーは1試合1試合の重みが違うし、個人競技で流れが掴めない時のストレスは本当にキツいと思う 短い時間で気持ちをリセットするにはラケット破壊or叫ぶくらいしか無いんじゃないかな" / Twitter

という意見もありますが、私は下の意見と同じです。

naga on Twitter: "プロの人だったらラケットとかスポンサーに付いてくれてる場合あると思うけど、スポンサー企業のモノをぶっ壊すこと自体がアレと言うかモノに当たるのって人として恥ずかしいって思うけど" / Twitter

 プロ野球でも打てなかった打者がバットを折ったり、ノックアウトされた投手がグラブを叩きつけたりするのも、精魂込めて用具を製作した方への侮辱だと思います。


 1980年代、全日本選手権時代の日本GP(最終戦)でした。
 国際A級のレースでファクトリーマシンを与えられたライダー(タイトル争い中)が、接戦で最終コーナーのシケインで他車と接触して転倒、すぐにマシンを起こしたのですが、走れる状態でないことが分ったのか、そのままマシンを投げ捨てるかのようにして歩き出したことがありました。

 その光景は今でも記憶に残っています。
 

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輪乗り(鈴鹿サーキット)

 で、検索してもほとんど記事が出てきませんね。

 「輪乗り」は、かつて鈴鹿サーキットでの二輪レースでのウォームアップの方法です。ホームストレートの中央部分500m程度の区間を使用するのですが、その両端のコース幅中央にポールを立てて、ライダー+マシンが直線を走り、ポールで折り返して回るのです。
 ゆっくりウォームアップしながら走ったり、加速して減速したり、あるいはコースの端(幅方向)に停車してエンジンウォームアップ(調整)に徹したり・・・
 
 これが危険だという声が出たのと、他のサーキットではやっていない、海外でも例が少ないということで、行われなくなった記憶です。外国のライダーのエントリーが多くなったころと記憶しています。1981年ごろでしょうか?

 で、

を見ていると、かつてのマン島TTレースでも輪乗りをしていますね。1分40秒辺りから。コース幅が狭いので折り返しに苦労しています。

 当時、ヨーロッパの他のGPではどうだったのかわかりませんが、公道サーキットが多く、十分な施設がないことが多かったでしょうから、マン島以外でも輪乗りをしていたかもしれません。


 ですから、1962年に開業した鈴鹿で輪乗りが行われていたのは不思議ではないと思います。

汚れた英雄

15日まで無料で見られます。
汚れた英雄 | 映画 | 無料動画GYAO! (yahoo.co.jp)

 40年程前、テレビ放送で初めて見ました。ストーリーははっきり言ってどうでもよくて、レースシーンだけが記憶に残りました。主役は草刈正雄ですが、本当の主役は平忠彦、ヤマハTZ500H、TZ500Jです。

 助演は木下恵司、ヤマハ0W53、0W60のようですね。

 マシンの詳細については後で書くことにします。



チーム、スポンサーのノボリ

masaoazumax on Twitter: "全日本MX 名阪大会 IA1クラスは下田丈が圧倒的な速さで優勝したのは凄かったけど、表彰台の下田丈を見ようと真ん前に陣取ってた大勢のMXファン達から、この状況に失望と文句の声がいっぱい聞こえてきた https://t.co/nD3PP03MS0" / Twitter


 全日本選手権ロードレースのスターティンググリッドも似たようなものだったと思います。
 チーム、スポンサーの大きなノボリが乱立して、肝心のライダー、マシンがよく見えません。
 私のスポンサーへの反感を増大するのに大きな役割を果たしたを想います。
 表彰式に較べれば大したことはありませんが。

 

 2006年の菅生。最近の状況は違うかもしれません。

ヤマハ発動機の創業 ー 楽器工場の活用なのか?

スズキにヤマハ、かつてはホンダも…静岡はなぜバイク大国? (msn.com)
「楽器メーカーとして創業したヤマハが、バイクを手掛けるようになったのは1955年と、ホンダやスズキに比べると後発です。当初は、稼働の少なかった楽器工場の有効活用が目的であったとされています」

「スズキは織機の製造を、ヤマハは楽器の製造から派生しており、それぞれが行っていた既存の事業のノウハウが、バイクの製造へと役立てられたということのようです」

 誤りです
 
 日本楽器(ヤマハ)は木工加工技術を生かして木製プロペラを製造するようになり、さらには金属製プロペラを製造しました。そして、太平洋戦争末期、プロペラ製造施設を新設の佐久良工場に疎開させましたが、戦後、米軍管理下に置かれます。

 そして、その工作機械がヤマハに返還されたのですが、ピアノ等の製造に使えるものはなく、その活用法としてバイクの製造に乗り出すことになったのです。「楽器製造工場の活用」ではなく「プロペラ製造施設の活用」です。

 ヤマハ発動機のウエブサイト中の
やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com)
では次のように書かれています。

「プロペラ用工作機械は佐久良工場へ運び出されていたために、ほとんど戦火にあわずに済んだ」

「昭和22年(1947年)にはピアノの生産も再開され、昭和25年9月15日には日本楽器の経営は川上嘉市社長から川上源一社長に継がれ、一つの転機を迎えることになった私も昭和27年11月に技術部の能率課長を命ぜられ、川上源一社長の工場近代化方針に基づき、家内工業的生産方式からの脱皮をはかるための仕事に参加させて頂くことになった。」

「そのころ佐久良工場において、賠償指定を受け整備保管されていた工作機械が、平和産業のためなら使用してよいということになって賠償指定は解除された。これらの工作機械は、当時の日本楽器の仕事の内容からするとほとんど使いみちはなく、何か活用の道はないだろうかと川上社長も頭を痛められていた様子であった」

 なお、ヤマハのウエブサイト中の記事の全体の目次は
やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし | ヤマハ発動機 (yamaha-motor.com)

です。この記事の元資料はヤマハ発動機創立25年記念誌です。
ヤマハ発動機創立の原点 挑戦 ヤマハ発動機創立の原点 挑戦 [BBqRQmU] - (ontoile.xyz)

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