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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ホンダRC165、2RC165のクランクシャフト平均軸径

RC166 HONDA (ganriki.net)(その1) 中、「2 1965年」の最初のところで次のように書いていました。

別冊モーターサイクリスト誌2000-6号のRC166特集では、2RC165について「~フリクションロス低減のためクランクピン径とジャーナル径を縮小している。」と書かれている。本記事は1994年の「HONDA R&D Technical Review」に掲載された「世界二輪グランプリレースに出場したホンダ レース用エンジンの開発史」(以下「前編」)及び「ホンダの二輪レース用機関の出力特性-機関諸元の選定-」(以下「後編」)を参考にしているようで、前編の諸元表には2RC165の欄に「クランクピン径とジャーナル径を縮小」と書かれている。
 
 しかし、後編のTable3のRC165、2RC165、3RC165、RC166のクランクシャフト平均軸径は16.2㎜で変わらない。また、ボア×ストロークとクランクシャフト平均軸径から計算される「諸元係数」も4機種共同じ値が記載されており、後編Fig8の諸元係数のグラフも同様である。このようなことから、前編の「クランクピン径とジャーナル径を縮小」は4気筒の2RC164の欄に記載すべき文が誤って2RC165の欄に記入されたもので、別冊モーターサイクリスト誌の記事はその誤りをそのまま引用したものと思われる。

これを、次のように修正しました。合わせて
RC166 HONDA (ganriki.net)(その3)中「8 諸元等」も修正しました。
申し訳ありません。


別冊モーターサイクリスト誌2000-6号のRC166特集では、2RC165について「~フリクションロス低減のためクランクピン径とジャーナル径を縮小している。」と書かれている。本記事は,、元ホンダの八木静夫氏らがまとめた1994年の「HONDA R&D Technical Review」に掲載された「世界二輪グランプリレースに出場したホンダ レース用エンジンの開発史」(以下「前編」)及び「ホンダの二輪レース用機関の出力特性-機関諸元の選定-」(以下「後編」)を参考にしているようで、前編の諸元表には2RC165の欄に「クランクピン径とジャーナル径を縮小」と書かれている。
 
 しかし、後編のTable3のRC165、2RC165、3RC165、RC166のクランクシャフト平均軸径は16.2㎜で変わらない。また、ボア×ストロークとクランクシャフト平均軸径から計算される「諸元係数」も4機種共同じ値が記載されており、後編Fig8の諸元係数のグラフも同様であり、前編の記述と矛盾している。

 一方、八木静夫氏がまとめた「ホンダエンジン開発史」では、RC165のクランクシャフト平均軸径は17.23mm、2RC165及び3RC165のクランクシャフト平均軸径は16.23mmとなっている。「17.23mm」という具体的な数字が記載されていること、本文中に2RC165について「~16.23としてPmltの低減を図るとともに」とあることから、RC165→2RC165の過程でクランクシャフト平均軸径が縮小されたものと思われる。したがって、後編中のRC165の諸元係数の値は解析ミスによるものと思われる。



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バリー・シーンに渡ったスズキRS67Ⅱ

スズキRS67Ⅱの記事

RS67 SUZUKI (その1)
RS67 SUZUKI (その2)

のその2で、「TEAM SUZUKI」(by Ray Battersby, Osprey 1982)の記述を参考に、シーンがRS67Ⅱエンジンを所有していることについて書き、サミー・ミラー・ミュージアムに展示されているRS67Ⅱのエンジンがシーン所有であったものと推定していました。

 このことについて、TEAM SUZUKIの著者自身から情報提供がありました。上の「その2」のはその内容を加筆済ですが、こちらにもその内容を紹介します。

The story of Barry Sheene's RS67-2 By Ray Battersby, 2021

In 1978, I visited Sheene's latest home, Charlwood Manor at Charlwood near Gatwick airport. Barry showed me around his home and workshops and led me inside one of his private workshops. I noticed a very dilapidated RS67 engine standing inside a wooden crate beneath a workbench. It was the first time that I had seen this motor other than in photographs. Sheene dragged it out and I photographed it from all sides*.

I asked Sheene how he had obtained the engine. He told me that at the end of 1977, he had visited the Suzuki race-shop at Hamamatsu to test the 1978 race machines. During this visit he stayed at the Grand Hotel in Hamamatsu as do all of Suzuki's guests and visitors. He was having a drink in the Grand Hotel Skyline Bar one evening when he met Suzuki's European Sales Manager. During their chat, Sheene asked him what had happened to Suzuki's famous old racing machines.

The next day, Barry was taken to a small store-room at the Suzuki factory, somewhere near the lakes used by Suzuki to test their outboard engines. Inside that small store-room were many old experimental racing machines (such as RF750) and amongst these old machines, Sheene found a small wooden shipping crate. He lifted its lid and found the RS67 125 V4 engine inside. Sheene pestered his Suzuki contacts to let him have the engine and eventually they agreed. After all, Sheene was Suzuki's first 500cc World Champion. 

The engine was shipped in its original shipping crate to Heron Suzuki GB's race-shop at Beddington Lane, Croydon amongst the 1978 racing machinery. It was not fitted with carburettors, magneto or expansion chambers. Eventually, Sheene and his father Franco Sheene, removed the engine and took it to their own workshops at Charlwood Manor. Soon afterwards, I visited Charlwood Manor on other business and saw the engine in its crate beneath Barry Sheene's work-bench.

It is possible that Sheene's original idea was to build this engine into a modern racing chassis but if that was his idea, he never found the time to do it. It is believed that Sammy Miller may have visited Charlwood, possibly to buy another Sheene racing machine for his museum, and saw the RS-67-2 engine there. A price was agreed and the engine went to Sammy Miller's museum workshop at Christchurch in Hampshire, England.

To complete the engine, Sammy Miller must have bought the carburettors and magneto elsewhere and had new expansion chambers made in the UK. Miller apparently ordered a replica RS67 racing chassis to be made in the UK by a company that used original photographs as a guide for its design, dimensions and shape. Some people believe the replica chassis itself is made of steel tubing, not aluminium alloy as used by Suzuki in 1967.

It is not known whether the power unit is in running order or whether this machine has ever been ridden.

 日本から流出したことは残念ですが、結果的にスクラップになるエンジンが一つ減ったと思えば、これでよかったのかもしれません。

JAえひめ中央のライダーによる記事?

12月, 2017 | JAえひめ中央(えひめ中央農業協同組合) (ja-e-chuo.or.jp)
にこんな記事がありました。記事の続きを読んでいくと、レースのことにも触れられています。
2サイクルエンジンと4サイクルエンジン⑥ ~ちょっと脱線バイクレース編~ | JAえひめ中央(えひめ中央農業協同組合) (ja-e-chuo.or.jp)

 2ストロークの国内ブランドバイク(公道用)が市販されていない現在、2ストロークエンジンをよく取り扱っているのは、草刈機、チェーンソーを販売している方でしょうか。JAも取り扱っているでしょうね。
 もちろん、4ストロークエンジンの製品もありますが、2ストロークエンジンも軽量故に根強い人気があるようです。

 私も実家でときどき使うことがありますが、混合油を作ってエンジンを始動した時の感覚は正に「2ストローク」で、ちょっと興奮します。

ヤマハ0W35(1977-78年型YZR500)

 その1を公開しました。
ヤマハ0W35(1977-78年型YZR500) (ganriki.net)
 
 本ブログで書いた内容をまとめたものです。その2はブログの内容に現存するマシンの写真等を追加した上で年明けに公開します。

 1978年の0W35Kのシリンダー/シリンダーヘッドの組付け方に関心を持ったのは1979年のことです。ライダースクラブ79-5(1979年3月27日発売)に、1979年シーズン前に袋井テストコースで公開された0W45(1979年型YZR500)の写真が掲載されており、1977年の0W35と異なり、0W45のシリンダー/シリンダーヘッドが分離締めになっていることを知りました。


 内側シリンダーの脱着が面倒になるにも関わらず、このような組付け方を採った理由はそれがパワーバルブを収めるためだろうと考え、さらに、1978年型(当時は機種記号は知りませんでした)はどうなっているんだろうと思いましたが、1978年型のエンジン写真は手元にありませんでした。

 1979年6月になってMOTOCOURSE1978-79を入手し、ヤマハの広告頁に1978年型YZR500のストリップの写真(写真の質が悪い)があり、シリンダー/シリンダーヘッドの組付け方がその前後で異なるであろうことに気が付きました。
 そして、1978年シーズン中の写真を確認し、シリンダーヘッドのナット位置ががMOTOCOURSEの写真のマシンと異なることに気が付いたのです。
 
 そんなわけで、いつかは記事にしたいと思っていましたが、
0W54 YAMAHA (ganriki.net)
に続いてこんな形での公開になりました。0W35、そしてケニー・ロバーツの活躍について知りたい方には申し訳ありません。

1961年ドイツGP125㏄6位は誰?

 表題の記事は公開校正の中のHONDA MOTORCYCLCE  RACING LEGENDO PART 3(リンク)からリンクしている
http://jfrmc.ganriki.net/zakkan/kousei/kousei17-2.htm

ですが、気が付かない方もいるようなので、MENUの雑学からリンクするようにしました。

 記事の内容は次のとおりです。

・・・・・・・
1961年ドイツGP125㏄6位は島崎貞夫だと思っていたし、こちらの2RC143/RC144の記事(リンク)もそれを前提に書いた。

 しかし、HONDA MOTORCYCLE RACING LEGEND PART3の114、166頁では、6位は高橋国光になっている。この本が参考にしていると思われるMOTO-GPの公式サイトでも、6位は高橋になっている。

 過去の記録、記述等を確認してみると、

(1) モーターサイクリスト誌1961-7の64頁には「ルイギ・タベリ(原文のまま)と彼に続く高橋、レッドマンはホンダチームで、5、6、7位の地位を確保した」とあり、高橋が6位になっている。

(2) 同65頁の結果表では島崎が6位、オートバイ誌1961-12の166頁のランキング表でも島崎は6位。

(3) 日本のレーシングモーターサイクルの歴史(1973八重洲出版)258頁の結果表では島崎が6位。

(4) Grand Prix Motorcycle Championships of the World (by Maurice Bula, G T Foulis 1975 (スイスで出版された Les As du Continental Circus の英語版)ではK.Takahashiが6位。

(5)ホンダ/サーキットの覇者(クリストファー・ヒルトン、1992ソニー・マガジンズ(英語版はHONDA CONQUERORS OF THE TRACK, Patrick Stephens 1990)では、島崎が6位。英語版も同様。

(6) THE RACE FOR LEADERSHIP 世界のランキングを求めて(1962モータースポーツランド:私所有のものは英語版)38頁に「The only Japanese rider in the event was Shimazaki (Honda). He placed sixth.」とあり、島崎が6位としている。40頁のレース結果表、13頁の年間ランキング表でも島崎が6位。

(7)Mike Hailwood Seine legendären Rennsportjahre(2007Text & Technik Verlag)ではSadao Shimasaki(原文のまま)が年間ポイント5(ドイツGP6位をカウントしていない)。

(8)右はドイツGP125㏄でのRC144で、ライダーの顔は明らかに島崎。


 仮に(6)の「only Japanese rider」が誤りで、高橋も出場していたとすると、高橋のマシンは同書の「Taveri, the only man riding a late-1960 model Honda」から、1961年型のRC144になる。しかし、250㏄クラスで1961年型のRC162が2台しか出場していないのに、125㏄でRC144が4台も出場したことになる。

 これらのことからすると、MOTO-GPの公式サイトの記録は誤りの可能性が高い。日本人ライダーとして高橋が有名なので、どこかで島崎が高橋と間違えられ、そのままになってしまったのだろうか。

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