レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
鈴鹿サーキットの設計者 (ganriki.net)
に次の文を図を追加しました。
参考として図3と図6を重ね合わせてみた。薄線が図3(フーゲンホルツ案)、濃線が図6(最終形)である。なお、前述のように出典は図を写真撮影したものであるため、図が若干歪んでいる。これを考慮して図を重ねたので、濃線と薄線のずれはあくまで参考とされたい。
もちろん、高低差の変化までは分りませんが、本文で書いたようにコース全般にわたって見直しがされ、「よく似たサーキット」になりました。
これだけ変わっているのに「コースレイアウトを決めたのはフーゲンホルツ」とされるのはいかがなものかと思います。
Honda C72, C77, C114 and CB72 – ホンダ広告アーカイブ (4-stroke.nl)
1961年マン島TT125㏄で優勝したマイク・ヘイルウッドの写真がありますので、1961年後半のものではないかと思われます。
この時点でHET MOTORPALEIS(ロッテルダム)とRAMO(エイントホーフェン)がオランダのホンダ輸入元でした。
1960年オランダGP(6月)でヒューベルツがホンダ250㏄4気筒(RC161)に乗りましたが、これはHet MotorpaleisのHans Moerkerkがヒューベルツに乗車機会を与えたとされています。
これはMoerkerkが
〇ホンダからいいライダーを紹介するよう依頼された
あるいは
〇ヒューベルツに250㏄4気筒を与えるようホンダに依頼した
のどちらかでしょう。1960年6月時点でMoerkerkのHet Motorpaleisがホンダ輸入元なら、これぐらいのことは当然だったと思います。