以前、ホンダのウエブサイトにあった「レーシングの源流」では、ホンダとフーゲンホルツの関わりについて次のように書かれていました。
「すでにヨーロッパでの活動によって多くの知人を持っていた飯田は、オランダでホンダ製品を取り扱うモーターサイクルディーラー、ヘッド・モト・パリス(注:Het Motorpaleis)のオーナーMr.モーカルク(注:Moerkerk)にその件を相談してみた。彼は、世界GP挑戦初期の不慣れなホンダ・チームの転戦に同行し、物心両面に渡って多大な世話になった人物であり、飯田とも心が通う信頼の置ける人物だった。そのモーカルクが推したのは、同じオランダ人のジョン・フーゲンホルツという人物だった。」
Het Motorpaleis(ロッテルダム)のMoerkerkについて飯田は次のように語っています(昭和二輪レ-ス史1950~1980(八重洲出版2008)) 。
「ヨーロッパ各国を転戦するわけですが、ホテルなどの手配は、オランダのロッテルダムのディーラーにお世話になりましたよ。世界中のモーターサイクルを扱っている大きなお店の社長さんでしたが、大のホンダファンになってくれて、私のブロークンな英語でも問題ない~」
つまり飯田は遅くとも1960年6月にはMoerkerkと親しい関係になっていたのです。また、1960年の世界GP参戦はオランダをベースキャンプにしていたようですので、当然、フーゲンホルツ(ザンドフールトサーキット支配人)とも交流があったでしょう。
つまり、飯田は1960年6月にはMoerkerkとフーゲンホルツの両者と面識がありました。
そして、飯田は彼がサーキット担当になった以降のことに次のように語っていました(オートスポーツ1994-6-1)。
「突然サーキット担当(になることが)決まったのです~最初は真冬のヨーロッパに、レース場視察ということで出かけました。その時、本田社長にいくつかアドバイスを受けました。ひとつは日本人スタッフだけではなく外国人のアドバイスを受けた方がよいということ~」
と語っています。この「突然」は世界GP最終戦イタリアGP(9月12日)後の日本帰国後でしょう。つまり、ホンダが外国人のアドバイスを受けることを決めたのは1960年9月以降のことであり、世界GPシーズン中のことではなかったことが分ります。
https://x.com/dadakomach/status/1888558255871549441
しかしそんなホンダもGP参戦当初はまったくパワーがなく絶望的に遅いマシン いつも苦労して整備していた日本人を熱い目で見ていたのが 老舗メーカーのイタリアのモンディアル 資金難でGP撤退が決まっていた 「よかったら、俺たちのエンジンをもらってくれ」と ホンダチームにGPエンジンを進呈 帰国後ホンダは~モンディアルのビアルベーロエンジンを徹底研究 ホンダはそれを上回るパワーのエンジンを作ってしまう
ホンダのGP初参戦は1959年マン島TT125ですが、この記事ではモンディアルエンジン入手は1959年マン島の後、あるいは1960年シーズンのことになりますし、「(モンディアルの)GP撤退は決まっていた」からすると、1959年、または1960年にモンディアルはGP参戦していたことになります。
しかし、ホンダがモンディアル125㏄レーサー(エンジンだけではなく完成車)を入手したのは1958年ですし、モンディアルのGP撤退は1957年シーズン後のことです。
これはよく知られた話で、どうしたらこんな勘違い記事を書けるのか不思議なくらいです。
当時の技術者の八木静夫氏の記事(HONDA R&D Technical Review 1994)
RC140 1958年、本格的なTTレース出場を目指した125ccエンジンの開発に当り~4月にRC140(φ45.0×39.0×2)の設計に入った。~その当時、我々は幸運にもイタリアの市販レーサであるモンディアル125ccを入手することが出来、急遽その性能解析を行った。最高出力は16.5PS(132PS/L)/11500rpmで、排気系のディフューザ効果など学ぶべきことが多くあった。
RC141 RC140の試作およびモンディアルの解析により本田社長および担当者から次々と新しいアイデアが出され、10月には改良モデルRC141(φ44.0×41.0×2)のレイアウトに入った~
RC141及びその4バルブ型のRC142が1959年マン島に出場しました。