マン島クリプスコース (ganriki.net)
の末尾に次の文を追加しました。
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「ホンダオートバイレース史」(中沖満、三樹書房2016)
143頁「(1959年)ホンダは~ジェフ・デュークを丁重に招いて試乗してもらう」
151頁「(1959年)~日本で初めてのGPマシンを「まあいいだろう、グッドだ」と言ったデュークの言葉を単なる社交辞令として受け取るべきではなかった。それがたとえ1500メートルのストレートを走っただけで「マン島TTへ出るのだ」という日本人を「何を言っているんだ!」とデュークがなかば呆れて言ったとしてもだった」
デュークの来日は1960年4月なのに、本書では1959年のことになっている。そして、グランプリ・イラストレイテッド1987-10に中沖満による次の記事がある。これはホンダの社員ライダーで1960年にマン島TTレース等に出場した島崎貞夫(故人)へのインタビューを元にしたもの(A~Cは私が分割したもの)。
A マン島用の125㏄が完成したとき、ホンダはジェフ・デュークを丁重に荒川に招き、試乗とアドバイスを求め、それに対しデュークは、「まァいいだろう」と答えた
B 僅か1,500mの直線を朝から晩まで走ることで、マシーンとライダーを鍛え、それだけでマン島に行く、という無謀さに充分な社交辞令をもって答えながら
C デュークは『1冊の教科書』(注:マウンテンコースのガイドブック)を渡した。(島崎氏)「これがそうです。私の20代の宝物のひとつです」(日本語に訳したもの)
A、Bは1959年TTレース出場の前のことであり、ここでも中沖はデュークの来日を1959年と勘違いし、「ホンダチームはクリプスコースが使用される1959年マン島TTの前にデュークの教科書(マウンテンコースのガイドブック)を入手しライダーが勉強した」と読める記事を作成したのだろう。
そして、この誤った内容が英訳されOxleyに伝えられ、Oxleyがさらに「ホンダチームは1959年にマン島に行って初めてクリプスコースが用いられることを知った」を加え記事にしたのだろうか?
なお、私は、1960年4月にホンダチームがデュークの教科書をデューク自身から入手したのかどうかすら疑わしいと考えている。
公開校正に ホンダオートバイレース史 (ganriki.net)
を追加しました。
ライターの中沖氏、ライダースクラブ誌で「鉄と心とふれあいと」を連載していたころはファンだったのですが、グランプリ・イラストレイテッド誌での元GP関係者へのインタビュー記事であまり信用できないと思うようになりました。特に1966年日本GP250㏄での長谷川弘選手の優勝を1967年かのように作文した記事はひどかった。
というわけで、ホンダオートバイレース史も「期待に違わず」誤りが多く見られます。レース平均速度、ラップ速度の誤りが多いのはともかく、次のような誤りは・・・
258頁「(マイク・ヘイルウッドの父親)契約した(第3戦)フランスGPでは、いちばん調子の良いRC162にマイクを乗せろと言い張り
258-259頁「(ヘイルウッドはフランスGPで)初めて乗るRC162を乗りこなし、フィリス、ヘイルウッド、高橋国光のワンツースリー・フィニッシュ~」
ヘイルウッドが初めてホンダ250に乗ったのは第2戦西ドイツでマシンはRC161でした。続く第3戦フランスでもRC161に乗り2位、そしてRC162が与えられた第4戦マン島で優勝しましたが、中沖氏は当時のレポートも写真も確認しないだけでなく、さらに作文して誤りを増幅させているのです。
このような中沖氏(故人)の記事をそのまま出版しようという出版社には事実を伝えようという気概は全く感じられませんが、それでも出版してくれるだけましと思わないといけないのかもしれません。
147頁「荷物にもブレザーにも日の丸をつけて行かなかったという」
「オリンピックでもそうだが、何が何でも日の丸、日の丸で行くのは考えものだという思いが宗一郎氏にはあった」
「~日の丸を仰々しくかかげて行くことはない。ホンダの名前とマークだけで行け。ということだったのである」
日本人ライダーのヘルメットには日の丸のステッカーが貼られていたし(同書155頁写真)、マシンのシートストッパーにも日の丸のステッカーが貼られていた。
この本は中沖満氏(故人)が「スポークホイール」(エヌ・エス出版)に連載していた記事を出版社がまとめ、それに出版社が写真、解説文を追加したものです。
という訳で、中沖氏の記事の誤り、勘違いもそのままですし、解説も誤りがありますので、私が某記事で書いた「昔も今も誰かが間違えれば皆間違えるし、さらに間違いを増幅していく」の典型本になっています。
例えば
143頁
「(1959年、マン島TTレース初出場前)ホンダはノートン・マンクスで~マン島TTを連続制覇した名手、ジェフ・デュークを丁重に招いて試乗してもらう」
とあります。デュークの来日は(1959年ではなく)1960年、モーターサイクル出版社(現・八重洲出版)の招きによるもので、デュークは各社を訪問しました。これは1960年4月にスズキを訪問し、1960年マン島TT出場予定マシンに跨っているところ(試乗もした)。デュークの後ろの皮つなぎ姿は伊藤光夫。
1960-TTレ-ス初出場 本文 (iom1960.com)
これはホンダの荒川テストコースを訪問した時のもので、1960年型250㏄(RC161)が写っている。
th_fH_09-HSC.jpg (1200×799) (mc-web.jp)
中沖氏の大元の記事はグランプリ・イラストレイテッド1987-10だと思われます。ホンダの社員ライダーで1960年にマン島TTレース等に出場した島崎貞夫氏(故人)へのインタビューをもとにしたもので、次のように書かれています(A~Cは私が分割したもの)
A マン島用の125㏄が完成したとき、ホンダはジェフ・デュークを丁重に荒川に招き、試乗とアドバイスを求め、それに対しデュークは、「まァいいだろう」と答えた
B 僅か1,500mの直線を朝から晩まで走ることで、マシーンとライダーを鍛え、それだけでマン島に行く、という無謀さに充分な社交辞令をもって答えながら(Cに続く)
C デュークは『1冊の教科書』を渡した。(島崎氏)「これがそうです。私の20代の宝物のひとつです」(日本語に訳したもの)
A、Bは1959年TTレース出場の前のように読めますが、Cは1960年TTレース出場前です。1959年のマン島TT125㏄はマウンテンコースでなくクリプスコースでしたし、島崎氏は1960年が初参戦なのですから、1960年出場前でないとマウンテンコースのガイドブックを読む意味がありません。
Cがなぜか中沖氏には1959年出場前のことになってしまい、A、Bを作文したのではないかと思われます。
また、私が マン島クリプスコース (ganriki.net) で書いた、イギリス人ジャーナリストによる「1959年、ホンダはマン島に行って初めてクリプスコースが用いられることを知った。デュークのマウンテンコースのガイド本で勉強していたのに」も、大元は中沖氏の記事の可能性があると思います。