レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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以前、ブログに書いていた記事をまとめたりしてKR250/KR350の記事を書いています。
KR250の開発について、RACERS Vol.42(三栄書房2017)ではKR250の開発は1974年10月に決定されたとしています。
しかし、KR250開発計画は1973年にスタートしています。カワサキの吉田和人によると、最初は並列2気筒リードバルブを構想していたが、上司の指示でロータリーバルブで行くことになり、幾つかのシリンダーレイアウトを検討した上でタンデム2気筒になりました。
タンデム2気筒で進めることになったのは1973年10月頃のようです。KMC(カワサキのアメリカ現地法人)のレース部門の監督・エンジニアだったランディ・ホールによると、同年11月頃の打合せの際にタンデム2気筒のレイアウトを提示されたとのことです。
さて、当時、AMA(アメリカ)のレースに出場するためには200台以上の生産が必要でしたから、計画は200台生産が前提でした。200台生産ですから、その大半を市販することになります。
しかし、カワサキはKR250だけでなくKR750の開発も進めており、両車を各200台以上生産し、1975年3月のデイトナ200マイル出場(250は200マイルの前日の100マイルレース)のは、カワサキにとって大事業で、間に合うかどうか微妙なところでした。
ところが1974年10月に台数基準が200→25台になり、計画実現可能性が高まったのです。RACERSの記事の「1974年10月」はこの時期です。
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2気筒・2本クランクシャフトで、2本のクランクシャフトを直接ギアで連結したエンジンとしては戦前のベロセット・Roarerがあります。ただし、クランクシャフトは縦置きですので、一見、普通の並列2気筒に見えます。
このマシンがタンデム2気筒(クランクシャフト縦置)になった理由は
後輪駆動チェーンの信頼性が低い
↓
シャフトドライブにする。
↓
クランクシャフト縦置きにする
↓
クランクシャフト1本ではクランクシャフトのモーメントが問題になるので、クランクシャフト2本にしてモーメントを互いに相殺する
でしょう。
クランクバランス率は100%で1次慣性力は完全に釣り合いますが、クランクベアリングの横方向の負荷が大きくなります。
また、2つのクランクピンは同位相ですので、各クランクシャフトの慣性トルク変動は(向きが異なるだけで)同じですが、360度等間隔点火ならガス圧トルク変動がクランクギアに悪影響を与えたでしょう。
このマシン、1939年のマン島TTのプラクティスで少し走ったのみで、同年9月の第二次世界大戦勃発、そして戦後のスーパーチャージャー禁止により、レースを走ることはありませんでした。
しかし、AJSのPorcupine(500cc並列2気筒)は戦前にスーパーチャージャー付で製作され、戦後、スーパーチャージャー無しで再設計されレースを走った(1949年500㏄世界GPチャンピオンマシン)のですから、Roarerが技術的に何らかの問題を抱えていた可能性もあります。
雑学に
KR250の慣性力の釣合
を追加しました。
1975年に登場したカワサキKR250が180度間隔点火で振動問題を生じ、同時点火にして解決したことが知られていますが、なぜ、カワサキが180度間隔点火を当初採用したのかについて推測したものです。

15分30秒あたりからKR500と市販スズキRG500※について語っています。
推定時系列順にまとめると
1980年シーズン前半、片山敬済はスズキ市販RG500(80年型)で世界GPに参戦していた。
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片山の帰国後、清原は片山から市販RG500の良さを聞いた。
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1981年、清原は総監督、車体設計者に(KR500との比較テストのため)市販RG500を買うことを提案したが拒否された。
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総監督、車体設計者がヨーロッパに行っている間に、清原は技術副部長に市販RG500購入を提案、SRS久保から500万円※で購入した。
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谷田部でスプロケットも変更せずに最高速を測定したら282km/h※、KR500は265km/hだった。
↓
FISCOに市販RG500を持ち込んだが、和田さん※が乗って転倒、マシンが全損したため、清原さんはFISCOで市販RG500に乗っていない。
ということです。
※清原さんは「RG500ガンマ」と語っていますが、市販レーサー・RG500のこと。RG500Γは一般市販車(公道用)の名称で、ファクトリーレーサーはRGΓ500。
※1981年型RG500の標準小売価格は230万円。清原さんの記憶違いか、実際に500万円だったのかは不明。
※Replica Vol.2: 永遠のレプリカ(内外出版社2014)掲載の清原さんインタビュー記事でも282km/hと語っています。また、この時、TZ700(TZ750と思われる)※もテストしたとのこと。
※「和田」は和田正宏と思われますが、和田さんは1979年シーズン後にカワサキを離れました。1981年のカワサキのテストに和田さんが参加したのでしょうか? あるいは和田さんが所属するチームもテストに来ており、和田さんが乗ったのでしょうか?
※本当にTZ750を1981年にテストしたとすれば、このTZ750はカワサキが持っていたものなのでしょうか? 1978年当時、カワサキがTZ750を持っていたようですが・・・
あるいは和田さんが所属するチームが持っていたのか?

9:40あたりの1983年8時間の話です。
カワサキフランスのジェラール・コードレイ/ジャック・コルヌのコードレイが予選で転倒したため、カワサキ明石のチームとして日下直一と組んでいた清原さんが急遽、コルヌと組むことになったのです。
で、清原さんがマシンについて語ったのは
清原さんのKR1000(カワサキ明石) 16インチ前ホイール
コルヌのKR1000(カワサキフランス) 18インチ前ホイール 補強だらけ
ということですが、実際、カワサキフランスKR1000にはフレームバックボーン中央からダウンチューブ中央を結ぶパイプが追加されていました。
かつてのライダーは昔のマシンのことをよく覚えていないことが多いのですが、40年以上前のことをはっきり覚えている清原さんの記憶力には驚かされます。
ただ、コルヌはフランス人ではなくスイス人です。スイスではロードレース(2輪も4輪も)は禁止されていたため(今はどうか?)、ロードレースを志すライダーは近隣国等でレースライセンスを取得しレースに出場していたため、ライセンス籍=国籍と誤解されることがあったのです。
この1983年8耐でも、レース前の選手紹介でコルヌがフランスのライダーとして紹介され、コルヌが猛抗議したのを覚えています。
また、明石工場のテストコースですが、12分28秒あたりに出るループのあるコース図は、今の直線だけのコースとは別です。直線部分の位置も少し異なります。この話は別途します。