レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。
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デュークがモーターサイクル出版社(現「八重洲出版」)の求めに応じて来日し各社を訪問したのは1960年4月ですが、細かい日程までは知りませんでした。
https://jfrmc.ganriki.net/zakkan/kousei/kousei33.htm
で、デュークの日本訪問が1959年のホンダのマン島TT初出場の前だったという勘違い記事(143頁、151頁)を校正していました。
デュークがホンダを訪問した日付が1960年4月22日(金)とわかりました(本田労組15年史 1968)ので、これを記事に加筆しました。
バイクのヘッドライトが常時点灯している理由とその背景とは
「ヘッドライトの常時点灯が義務化されたのは、1998年に施行された道路運送車両法の改正によるもので~常時点灯が義務化される以前に生産されていたバイクには、ヘッドライトのON/OFFのスイッチが備わっていました。」
私が購入した1992年型のバイクは常時点灯でした。同機種の1991年型は常時点灯ではなく、マイナーチェンジの際に常時点灯になったのです。常時点灯義務化が1998年なら、国内4メーカーは自主的取り組みとして逐次、常時点灯化を進めたのでしょう。
https://bike-news.jp/post/269485
によると
「バイク事故の増加にともない、事故防止の観点からヘッドライトの常時点灯が推奨されるようになったのです。これは、1989年に「バイクは昼間もライト・オン!」と呼び掛けたPR活動が、日本自動車工業会などの主導のもとおこなわれたのがきっかけでした。」
ということのようです。
あるいは海外で先に常時点灯義務化が進んだので、コスト増加を避けるために国内も常時点灯にした、という意味もあったかもしれません。

https://www.autoby.jp/_ct/17744983
「レースシーンで培ったノウハウを惜しみなく投入し、エンジンは市販レーサー・TZと同じボア・ストローク比を採用。排出ガス浄化のため燃焼効率が徹底的に見直され、燃料と2ストオイルの分離給油やCDI点火も導入された結果、最高出力は35PSに達した。これはリッター当たり140PSという驚異的なもので、当時の250ccモデルとしては異例の高性能だった。
ボア・ストローク比といいますが、ボア・ストローク(54×54mm)が同じなのですから「比」は不要ですね。だいたい、1970年発売のDX250(空冷)から同じボア・ストロークです。
ヤマハ250が分離給油になったのは1960年代です。
ヤマハ250・2ストローク並列2気筒がCDIになったのは1979年型RD250(空冷)です。
RZ250が発表されたのは1979年、46年前ですが、初めて姿を見せたのはパリ・ショーだったと思います。この時は輸出の主力となるRZ350(輸出版の名称はRD350LC)でした。
RZ250が国内発売されたのは1980年8月で、私が初めて見たのは1980年8月下旬でした。その頃、私は某所で2週間研修を受けていたのですが、夕方まだ明るい時間帯に見た記憶ですので、研修が休みだった8月24日((日))だったと思います。2人乗りの白のRZ250が国道〇号線を東向きに走っていた光景は今でも鮮明です。
当時、一般市販車の改造範囲が厳しく制限されたマシンによるプロダクションレースが行われていましたが、1980年日本GPのプロダクションレース(9月13日・土曜日)でRZ250が初登場し優勝(確か2位もRZ250だった記憶)。ただ、RZ250がMFJに公認されたのは9月12日ですので、ぎりぎり間に合ったというところでしょう。

https://jfrmc.ganriki.net/zakkan/suzuka/suzuka.htm
を加筆修正しました。
●2-(3)鈴鹿サーキットの「設計者」 フーゲンホルツと塩崎の寄与比率の修正等
●3-(2)-虚偽2について フーゲンホルツの日本招聘に関し、ビザ取得の可能性について言及
等々です。
外務省のウェブサイトからすると、短期であっても日本企業から報酬を得るならビザが必要です。
外務省 https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/visa/
1961年当時、現在よりビザの必要な条件が緩いとは考えにくく、フーゲンホルツは就労ビザを取得していた可能性が高いと考えます。
ビザ申請にあたってはホンダからの招聘状が必要ですが、「PLEASE COME TO TOKYO」だけの電報は招聘状になりえません。また、観光等のビザではなく就労ビザとなれば申請からビザ交付まで1ヵ月以上は必要でしょう。とすると、1960年10月頃には招聘状がフーゲンホルツに渡っている必要がありますし、それなら塩崎、飯田らがフーゲンホルツに直接渡したと考えるのが自然です。
また、フーゲンホルツの招聘に関しては、依頼内容、期間、報酬等をフーゲンホルツに提示する必要がありますし、それは「PLEASE COME TO TOKYO」だけ書かれた電報ではありません。塩崎、飯田らは1960年訪欧時にフーゲンホルツに会ったのですから、直接依頼したはずです。
塩崎が語った「フーゲンホルツを連れて帰った」を「連れて帰ったようなもの」と解するなら、まさにそのとおりだと思います。