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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

タンデム2気筒の慣性力の釣り合い

 1975年に登場したカワサキKR250(T601)はタンデム2気筒でした。簡単に言えば、単気筒を前後に繋げたエンジンですが、ここでは2気筒の各クランクシャウトが平行に位置するように連結したものをタンデム2気筒エンジンとします。

 このKR250、当初は180度等間隔点火でしたが、振動に悩まされ、1976年10月の日本GPに登場した新型で2気筒同人点火になり、振動問題が解決されました。

 世界で初めてのタンデム2気筒がどんなものが知りませんが、私が着目しているのは第二次世界大戦前に製作されたベロセット・Roarer(500㏄スーパーチャージャー)です。
http://velobanjogent.blogspot.com/2014/06/the-roarer-re-createddan-smith-in.html
 一見、並列2気筒に見えますが、タンデム2気筒です。
https://www.flickr.com/photos/velton/4640552918

 なぜ、このようなエンジンレイアウトにしたかというと、

1 当時はチェーンドライブの信頼性が低かったので、シャフトドライブにしたかった。
2 シャフトドライブにするためには、クランクシャフト縦置きの方がよい。
3 クランクシャフトを縦濃きすると、トルクモーメントがハンドリングに大きく影響する→クランクシャフトを2本にして、相互逆回転にすればトルクモーメントは相殺される。

です。

 この1次慣性力を釣り合わせるために、クランクシャフトのバランスウエイトを1次慣性力相当分にし、ピストンの動きを2気筒同じにすれば1次慣性力を打ち合わせることができます。

 ピストンが上死点にあるときはバランスウエイトが1次慣性力を打ち消してくれます。赤矢印が1次慣性力、青矢印バランスウエイトの遠心力です。


 そこから90度回転すると1次慣性力はゼロになり、横方向のバランスウエイト遠心力は互いに逆方向なので打ち消されます。


 2ストロークであれば必然的に同時点火になりますが、Roarerは4ストロークですので、360度等間隔点火だったと思います。ただ、その場合、2気筒を連結するギアの耐久性が心配です。
http://jfrmc.ganriki.net/zatu/2crank/2crank.htm

 もう一つ心配なのは、クランクベアリングの荷重です。バランスウエイトを1次慣性力相当分にしますと、横方向に1次慣性力相当分の遠心力が働くからです。
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1980年のケニー・ロバーツ(ヤマハ)はどこと契約した?(2)

この記事は
http://jfrmc.tou3.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/1980%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AF

に加筆したものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・

 ケニー・ロバーツが500CC世界GPに参戦した6年間のうち、1978-80は、黄色主体のいわゆるインターカラーで、1981-82がヤマハ・ファクトリーカラーというべき白地に赤ストライプ、1983年がマルボロカラーでした。
 
 このことから、雑誌等では「ロバーツは1978-80年はヤマハのアメリカ現地法人Y.M.U.Sとの契約、1981-82年はヤマハ本社契約」と書かれた記事をよく見かけます。ヤマハのウェブサイトでも、1981年について「K・ロバーツが本社契約ライダーとして参戦し~」と1981年から本社契約となったかのように書かれています。
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/season1980_89/1981/


 ライダースクラブ誌(枻出版)1980-4に次の記述があります。

 (シーズン前に公開された1980年型YZR500について)「マシンは今のところファクトリーの純正カラーに塗られているが、今シーズン本社契約で走るのはロバーツひとりであり~昨シーズンまでと同じようにUSヤマハカラー(略)となれば、伝統のこのカラーリングはGPで見られなくなってしまうのだろうか」
 
 さて、ケル・カラザースは24年前に次のように語っています。https://web.archive.org/web/20101221015640/http://superbikeplanet.com/2002-Sep/kelcarruthers1996.htm

”(注 1978年について)It was all financed by America (Yamaha). They paid me, they paid Kenny. They got me a budget to run the race team. Of course Kenny won the championship and the next year he won it again and then the factory more or less decided that they'd give up the factory team and let me run the factory team. So I ran the factory team and was contracted to Japan and basically I had Kenny as a rider and we had mechanics and one engineer from Japan.”

 簡単にまとめると「1978、79はヤマハ(アメリカ)が資金を出し、1978、79とタイトルを手にしたが、1980年、ヤマハ(日本)はファクトリーチームの自社運営を諦め、ヤマハ(日本)はカラザースにファクトリーチームの運営を委託した」のです。

 つまり、ライダー(ロバーツ)はヤマハ(日本)の契約で、チームはヤマハ(日本)と契約したカラザースチームだったのです。これが、ロバーツがY.M.U.Sの契約でないにも関わらず1980年のロバーツのマシンのカラーリングがインターカラーのままだった理由です。


 マシンのカラーリングだけでライダーの契約関係を判断することはできないのです。

ART AND SCIENCE

https://twitter.com/KGN_works/status/1295971865572253698
を読んで思い出したのはこの本。
https://www.amazon.co.jp/Art-Science-Motorcycle-Road-Racing/dp/090513835X

 写真は1986年頃の増補版で、初版が1982/1/1になっていますが誤りです。初版本には「published in 1982」とだけ記されていますが、本の中に1982年シーズンの写真があるのですから、1982年の終わり頃の発行です。

 昔、この本の序文を読んでいて、artの意味が「芸術」ではおかしいと気が付いて、英和辞典で調べると、職人技、名人芸といった意味が載っていて、この本のartはこちらだなと分ったのです。

 もちろん、日本では職人技と芸術を別の意味で捉えていますが、英語では同じ言葉なのです。平田オリザ氏の「芸術立国論」の「芸術」をartと訳したら、英語人は「職人技立国論」と理解するのかな?

1980年のケニー・ロバーツ(ヤマハ)はどこと契約した?

 ケニー・ロバーツが500CC世界GPに参戦した6年間のうち、1978-80は、黄色主体のいわゆるインターカラーで、1981-82がヤマハ・ファクトリーカラーというべき白地に赤ストライプ、1983年がマルボロカラーでした。
 
 このことから、雑誌等では「ロバーツは1978-80年はヤマハのアメリカ現地法人Y.M.U.Sとの契約、1981-82年はヤマハ本社契約」と書かれた記事をよく見かけます。ヤマハのウェブサイトでも、1981年について「K・ロバーツが本社契約ライダーとして参戦し~」と1981年から本社契約となったかのように書かれています。
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/season1980_89/1981/


 このことについて、ケル・カラザースは24年前に次のように語っています。
https://web.archive.org/web/20101221015640/http://superbikeplanet.com/2002-Sep/kelcarruthers1996.htm

”(注 1978年について)It was all financed by America (Yamaha). They paid me, they paid Kenny. They got me a budget to run the race team. Of course Kenny won the championship and the next year he won it again and then the factory more or less decided that they'd give up the factory team and let me run the factory team. So I ran the factory team and was contracted to Japan and basically I had Kenny as a rider and we had mechanics and one engineer from Japan.

 簡単にまとめると「1978、79はヤマハ(アメリカ)が資金を出し、1978、79とタイトルを手にしたが、1980年、ヤマハ(日本)はファクトリーチームの自社運営を諦め、ヤマハ(日本)はカラザースにファクトリーチームの運営を委託した」のです。これが、ロバーツがY.M.U.Sの契約でないにも関わらず1980年のロバーツのマシンのカラーリングがインターカラーのままだった理由です。

 マシンのカラーリングだけでライダーの契約関係を判断することはできないのです。

(続きが書けるかな)

2020鈴鹿8時間耐久レースは中止

https://news.yahoo.co.jp/articles/5d91d8d70d2790f6ea5e10bf05ead1f01405a4ed

 11月開催で準備が進められていましたが中止になりました。現状では止むを得ない判断だと思います。

 1978年の8時間耐久レースを見に行きました。土曜日午前中の予選はグランドスタンドで、午後のノービス125、ジュニア125㏄レースはヘアピンで、18時からの練習走行はグランドスタンドで見た記憶です。日曜日のレースはグランドスタンド→最終コーナー出口→入口→ヘアピン→逆順でスタンドに戻る、で見ました。

 当時は夏といっても近年と違ってそんなに暑くなかったし、日陰は涼しかった記憶です。ただ、日差しは強くて、78年は日焼け対策が不十分で、ばててしまいましたが、79年以降は日焼け対策等をするようになり、そんなに疲れなかったと思います。若かったなあ。

 記憶では1978年は土日共に晴れ、1979年は土曜日は薄曇りで午後ににわか雨が降り、日曜日は曇り時々晴れ、1980年は金曜日は晴れで土曜日は曇り
後雨(4時間耐久は雨中)、日曜日は晴れでした。
 あれから40年余りですが、当時のレースそのものの記憶は今でも鮮明です。

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