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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

「的を得る」は誤用ではないーイタリアGPの名称

 詳しくはこちら。
11.「的を得る」は「的を射る」の誤用ではない? 底無しの「日本語沼」の話 - 間違えやすい日本語表現(澤田慎梧) - カクヨム (kakuyomu.jp)

 他にも詳しく解説されている方がおられます。

 「ガールズ&パンツァー」のパンツァー=panzer はドイツ語で「装甲」、「戦車」ですが、ドイツ人にとってpanzerといえば戦車をまず思い浮かべるそうです。
 では、第二次世界大戦中はどうだったのでしょうか? ドイツの宣伝映画をyoutubeで見ることができますが、ナレーターが「panzer!」と叫んだ後に戦車が登場するシーンがあったりするので、第二次世界大戦中でもpanzerの一義的な意味は戦車だったようです。

 さて、かつて、イタリアグランプリの正式名称は

Gran Premio delle Nazioni
でした。nazioniはnazioneの複数形です。

 そのまま英語に訳すと
Grand Prix of Nations
になります。MOTO GPの公式サイトでも、かつてのイタリアGPをこのように表記していますし、これに倣ってか、日本の雑誌等でもかつてのイタリアGPをネイションズGPと表記するようになりました。

 問題はnazioniが何を指すかです。辞書では
国家(複数形なので諸国とした方がいいかな)
国民
が主な意味です。
  
   イタリアでGPが初めて開催されたのは1914年で、その時、そして第1次世界大戦を挟んで1921年は Gran Premio d'Italie でした。そして1922からGran Premio delle Nazioniになりました。

 その2年前に国際連盟が成立しましたが、国際連盟はイタリア語では
Società delle Nazioniです。このNazioniはイタリア、イギリス・・・等の諸国です。

 では、Gran Premio delle Nazioni のNazioniも同じ「諸国」なのでしょうか。

 
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タンデム2気筒

 前回(リンク)カワサキKR250/350の前にMZが125㏄クラスでクランク横置タンデム2気筒を走らせていたことを紹介しましたが、別にカワサキのタンデム2気筒が「世界初ではない」からどうだと言う意図はありません。

 1963-65年にスズキは250㏄クラスでスクエア4気筒を走らせていましたが、これを縦に半分にすればタンデム2気筒になります。
 そもそも、ロータリーディスクバルブ2気筒でエンジン幅を極小にしようとすれば、必然的にタンデム2気筒かクランク2軸V型2気筒になってしまうのです。

 タンデム2気筒というレイアウト自体、誰でも思いつきそうなものです。しかし、レーシングマシンは形だけの品評会に出展するためのものではありません。大事なの
は、タンデム2気筒エンジンの振動を抑え、長いエンジン長のために車体の軸距が長くなりがちなマシンをレーシングマシンとして成功させることなのです。

9月13日

は私にとって思い出深い1980年日本GP予選(土曜日)の日です。

 その数日前、ヤマハの金谷秀夫さんが書かれたこの本(リンク)を購入し、土曜日の車両検査の時に金谷さんにこの本にサインを頂きました。日付もちゃんと入れていただいて。金谷さんが「もう買ってくれたんや~」、「本の中で「パーシャル」と言ってるけど分った? スロットルを1/5ぐらい(だったかな?忘れた)開けた状態なんやけど」と話されたのをよく覚えています。

 予選で金谷さんはポールタイムを出しながら転倒して心配しましたが、パドックを覗くと金谷さん、高井幾次郎さんらが談笑しており、ケガは大したことはなかったようです。ただ、翌日のレースは欠場、そして高井さんが優勝したのです。

 この日本GP、私にとって他にも意味があり、そんなわけで9月13日という日付はずっと記憶にあります。

 私が金谷さん、高井さんの走る姿を見るのはこの日本GPが最後になりました。そして高井さんはその1年半後、金谷さんは33年後に亡くなられました。

タンデム2気筒の慣性力の釣り合い

 1975年に登場したカワサキKR250(T601)はタンデム2気筒でした。簡単に言えば、単気筒を前後に繋げたエンジンですが、ここでは2気筒の各クランクシャウトが平行に位置するように連結したものをタンデム2気筒エンジンとします。

 このKR250、当初は180度等間隔点火でしたが、振動に悩まされ、1976年10月の日本GPに登場した新型で2気筒同人点火になり、振動問題が解決されました。

 世界で初めてのタンデム2気筒がどんなものが知りませんが、私が着目しているのは第二次世界大戦前に製作されたベロセット・Roarer(500㏄スーパーチャージャー)です。
http://velobanjogent.blogspot.com/2014/06/the-roarer-re-createddan-smith-in.html
 一見、並列2気筒に見えますが、タンデム2気筒です。
https://www.flickr.com/photos/velton/4640552918

 なぜ、このようなエンジンレイアウトにしたかというと、

1 当時はチェーンドライブの信頼性が低かったので、シャフトドライブにしたかった。
2 シャフトドライブにするためには、クランクシャフト縦置きの方がよい。
3 クランクシャフトを縦濃きすると、トルクモーメントがハンドリングに大きく影響する→クランクシャフトを2本にして、相互逆回転にすればトルクモーメントは相殺される。

です。

 この1次慣性力を釣り合わせるために、クランクシャフトのバランスウエイトを1次慣性力相当分にし、ピストンの動きを2気筒同じにすれば1次慣性力を打ち合わせることができます。

 ピストンが上死点にあるときはバランスウエイトが1次慣性力を打ち消してくれます。赤矢印が1次慣性力、青矢印バランスウエイトの遠心力です。


 そこから90度回転すると1次慣性力はゼロになり、横方向のバランスウエイト遠心力は互いに逆方向なので打ち消されます。


 2ストロークであれば必然的に同時点火になりますが、Roarerは4ストロークですので、360度等間隔点火だったと思います。ただ、その場合、2気筒を連結するギアの耐久性が心配です。
http://jfrmc.ganriki.net/zatu/2crank/2crank.htm

 もう一つ心配なのは、クランクベアリングの荷重です。バランスウエイトを1次慣性力相当分にしますと、横方向に1次慣性力相当分の遠心力が働くからです。

1980年のケニー・ロバーツ(ヤマハ)はどこと契約した?(2)

この記事は
http://jfrmc.tou3.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/1980%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AF

に加筆したものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・

 ケニー・ロバーツが500CC世界GPに参戦した6年間のうち、1978-80は、黄色主体のいわゆるインターカラーで、1981-82がヤマハ・ファクトリーカラーというべき白地に赤ストライプ、1983年がマルボロカラーでした。
 
 このことから、雑誌等では「ロバーツは1978-80年はヤマハのアメリカ現地法人Y.M.U.Sとの契約、1981-82年はヤマハ本社契約」と書かれた記事をよく見かけます。ヤマハのウェブサイトでも、1981年について「K・ロバーツが本社契約ライダーとして参戦し~」と1981年から本社契約となったかのように書かれています。
https://global.yamaha-motor.com/jp/race/wgp-50th/race_archive/season1980_89/1981/


 ライダースクラブ誌(枻出版)1980-4に次の記述があります。

 (シーズン前に公開された1980年型YZR500について)「マシンは今のところファクトリーの純正カラーに塗られているが、今シーズン本社契約で走るのはロバーツひとりであり~昨シーズンまでと同じようにUSヤマハカラー(略)となれば、伝統のこのカラーリングはGPで見られなくなってしまうのだろうか」
 
 さて、ケル・カラザースは24年前に次のように語っています。https://web.archive.org/web/20101221015640/http://superbikeplanet.com/2002-Sep/kelcarruthers1996.htm

”(注 1978年について)It was all financed by America (Yamaha). They paid me, they paid Kenny. They got me a budget to run the race team. Of course Kenny won the championship and the next year he won it again and then the factory more or less decided that they'd give up the factory team and let me run the factory team. So I ran the factory team and was contracted to Japan and basically I had Kenny as a rider and we had mechanics and one engineer from Japan.”

 簡単にまとめると「1978、79はヤマハ(アメリカ)が資金を出し、1978、79とタイトルを手にしたが、1980年、ヤマハ(日本)はファクトリーチームの自社運営を諦め、ヤマハ(日本)はカラザースにファクトリーチームの運営を委託した」のです。

 つまり、ライダー(ロバーツ)はヤマハ(日本)の契約で、チームはヤマハ(日本)と契約したカラザースチームだったのです。これが、ロバーツがY.M.U.Sの契約でないにも関わらず1980年のロバーツのマシンのカラーリングがインターカラーのままだった理由です。


 マシンのカラーリングだけでライダーの契約関係を判断することはできないのです。

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