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レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

ケニー・ロバーツのGP出場数(2)

 前回、ロバーツの500ccクラス出場レースを整理したので、続いて250ccクラス。

 ケニー・ロバーツは1974年250ccオランダGPに出場、3位入賞したことが知られていますが、問題は1978年の250ccクラスです。この1978年、ロバーツは世界GPでは250ccと500ccに出場、F750世界選手権にも出場し、3つのタイトル獲得の構えでした。

 250ccクラスは全12戦で、入賞したのは250cc第1戦ベネズエラ(優勝)、第2戦スペイン(2位)、第3戦フランス(2位)、第5戦オランダ(優勝)です。ですから得点ランキング表だけみても4戦に出場したことがわかります。
 なお、MOTOGPの公式サイト(リンク)ではこの4戦のみ参戦として記載されています。

 無得点だったレースの結果について、MOTOCOURSE1978-79、ライダースクラブ誌(当時)の記述等をたよりに整理しますと

第4戦イタリア
 プラクティス 1位 レース リタイア(焼付き)

第6戦ベルギー
 プラクティス 7位 レース リタイア(焼付き)


第7戦スエーデン
 プラクティス 順位不明  レース 欠場

第8戦フィンランド
 プラクティス 4位 レース リタイア(ミスファイア)

第9戦イギリス
 プラクティス 2位 

第10戦 ドイツ
 プラクティス 5位

第11戦チェコスロバキア 
 欠場

第12戦ユーゴスラビア 
 欠場

 第8戦スエーデンGPでのロバーツについて、ライダースクラブ誌1978-10では「金曜日のプラクティスでめずらしくクラッシュしてしまったスーパー・アメリカン、ケニーロバーツ。かなりのダメージを小さな体に受け、さしものロバーツも250はあきらめ、500になんとか賭けたが7位を得るだけが精いっぱいであった」とあり、250㏄は欠場したことが書かれています。

 また、第8戦フィンランドについて、MOTOCOURSE1978-79では

  Roberts, with a theoretical chance of taking the championship and still in need of circuit knowledge, started brightly and held third place until a misfire put him out of the race and the championship.

とあり、レースに出場しました。
 
 フィンランドGP終了時点でランキング1位はコーク・バリントン(カワサキ 84点)、2位はグレッグ・ハンスフォード(カワサキ 79点)で、ロバーツはランキング3位(54点)でした。残り4戦ロバーツが2人に追い越すためには、2人がそれぞれ1~2回無得点にならないと困難な状況になっていました。
 
 一方、500㏄クラスでは僅差でランキング首位に立っていたので、500㏄クラスに集中することになりましたが、ロバーツにとって初めて走るコースが多く、プラクティスだけは250㏄マシンを走らせコース習熟を行ったとされています。

 
 年間ランキング表からすると、それはベルギーGP以降のように思われるかもしれませんが、イギリスGP以降と思われます。


 というわけで、ロバーツは250ccクラスについて、1974年は1戦、1978年は7戦出場し、500ccクラスの59戦と合わせて67戦出場、というのが現時点での私の考えです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
参考
 1978年250ccクラスのランキングです。最終ランキング3位のフェルナンデスは終盤のロバーツ欠場で最終的にロバーツを1点上回っただけなので、ここでは記載していません。

  1V 2E 3F 4I 5N 6B 7S 8Fin 9GB 10D 11Cz 12Y
Ballington  6 14 24 39 51 57 69 84 99 114 124
Hansford   15 30 42 52 67 79 91 103 118
Roberts 15 27 39 54

 ロバーツは第6戦ベルギーでリタイアしたものの、ライバルも上位入賞できなかったために、バリントンに3点差のランキング2位でした。第7戦スエーデンを欠場しても首位に15点差のランキング3位で、残り5戦で逆転の可能性は十分ありました。そして第8戦フィンランドのリタイアで、250ccタイトル獲得の可能性が非常に低くなったのです。

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ケニー・ロバーツのGP出場数

【since1978】世界最高峰クラスで魅せ続けた伝説のライダー達 第1回:Kenny ROBERTS(ケニー・ロバーツ) - LAWRENCE - Motorcycle x Cars + α = Your Life. (lrnc.cc)
によると、60戦です。

ケニー・ロバーツ - Wikipedia
では68戦になっています。

MOTOGPの公式サイト
MotoGP™ Riders
のスタティスティックスの数字を合計すると62戦になります。もちろん、この数字は前に
JFRMCブログ MOTO GP公式サイトのリザルト(2) (tou3.com)
で指摘したように間違いです。



まず、500㏄クラスに限って整理します。

1983年
全12戦中12戦出場。

1982年
全12戦中8戦出場、ボイコット1戦(フランス)、欠場3戦(スエーデン、サンマリノ、ドイツ)

1981年
全11戦中10戦出場、欠場1戦(サンマリノ(体調不良))。
オランダではスターティンググリッドに着き、レースがスタートしましたが、ブレーキ故障(整備不良)により走れませんでした。スタート時点でグリッドに着いていたので「出場」としました。

1980年
全8戦中8戦出場。

1979年
全12戦中10戦出場、1戦ボイコット(ベルギー)、1戦欠場(ベネズエラ(負傷))。

1978年
全11戦中11戦出場。

合計すると12+8+10+8+10+11=59戦出場になります。
(続く)


イタリアGPの名称(2)

 私はイタリア語やイタリアの歴史についてあまり知りませんが、誤謬を恐れず、個人的な感想を書きます。
・・・・
 まず、イタリアで開催されたGPの名称を整理します。

1913、1921  Gran Premio d'Italia
1922~1934  Gran Premio delle Nazioni
1936~1938  Gran Premio d'Italia
1947~1990  Gran Premio delle Nazioni(1949年から世界選手権)
1991~          Gran Premio d'Italia
 
 さて、イタリアがある程度統一されたのは1861年です。その後、ローマ、ベネツィア一帯がイタリアになり、第一次大戦後の1920年に「未回収のイタリア」の大部分がイタリアになりました。
未回収のイタリア (y-history.net
 イタリアGPの名称がGrand Premio delle Nazioniになった1922年は、このような情勢下です。

 さて、レースの方に話を戻すと、20世紀に入り、各国で国名、地域名、組織名(U.M.F.:Union Motocycliste de France)を冠したGPが行われるようになっていました(マン島TTを除いて)。

 当時、ヨーロッパで各国のレース主催団体が集まった組織としてFICM(Fédération Internationale des Clubs Motocyclistes)があり、イタリアの団体も加盟していました。そして、1924年からGrand Prix d'Europe F.I.C.M.が行われるようになります。これは、毎年、各地を転戦する今のような選手権ではなく、ある国のグランプリをGrand Prix d'Europe F.I.C.M.としても行い、勝者をヨーロッパチャンピオンとするものです。

 さて、delleは英語ではofに相当します。Grand Prix d'Europe F.I.C.M.の「d'」はフランス語のdeの語尾音省略形で、これもofに相当します。

ofの意味は
ofの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

 レースの名称が

Grand Prix of 「国名(又は地名、組織名)」


 ならofの意味が理解できます。Grand Prix d'Europe F.I.C.Mも、F.I.C.M.として
〇「ヨーロッパに属する」Grand  Prix
あるいは
〇「ヨーロッパが行う」Grand Prix
を開催するのですから。

 しかし、Nazioniをイタリア及びイタリア以外の国々の「諸国」とした場合、ofの意味の理解に苦しみます。各国のグランプリには国名(又は地名、組織名)を冠するのが一般的であったにも関わらず、Grand Prix d'Europe F.I.C.Mが始まる2年前に、イタリアでのGPがF.I.C.M.(第二次大戦後はF.I.M.)の名の下に、諸国を代表する形で行われたとは考えられないからです。

 2024年からGrand Prix d'Europe F.I.C.M.が始まるのに先んじて、イタリアの主催団体が、勝手に「諸国」を使い出したということも考えられますが、そもそもグランプリ、Gran Premio は「大賞」→その国で最高の賞を争うレースであり、1922年当時、(未回収のイタリアが領土となり)民族意識が高まっていたのに、そのようなレースに「諸国」を冠するとは思えません。

 ちょっと話題を変えて、Inno delle nazioniという曲について考えてみます。イタリア統一(1961年)の翌年のロンドン万博(1962年)のためにヴェルディが作曲した曲で、歌詞と曲の解説はこちら。
ヴェルディ Inno delle nazioni (biglobe.ne.jp)
 
 日本語の曲名が「諸国民の賛歌」となっています。確かに「万博のために作曲」という背景、「フランス国歌、イギリス国歌が盛り込まれている」ことからすると、この訳が適切なように思えてしまいます。

 しかし、歌詞からすると、私にはこの曲に「イタリア万歳、統一を応援してくれたフランスさん、イギリスさん、ありがとう」というイメージしか湧きません。
 とすると、この曲のnazioniはイタリア統一前の国々(諸国)を指すのではないかと思えるのです。つまり、この曲名は

(統一された諸国=)イタリアの賛歌

という意味が込められているように思えてなりません。

 Gran Premio delle NazioniのNazioniも同様だとするなら、

「(統一された諸国=)イタリアのグランプリ」

あるいは

「全国グランプリ」(「国の全て」ではなく「我々の全ての国」)

のような意味なのでしょうか。そうなら、上で書いた疑問点も解決するのですが。

 仮に、この解釈が正しいとするなら、そのような名称を採用した理由としては、
〇四輪のイタリアでのグランプリは、一貫してGran Premio d'Italiaと称されていたことからすると、「四輪のGran Premio」と区別するため
〇イタリアとして統一されたとはいえ、地域による言葉の違い、南北格差がある中で、「我々の全ての国」を訴えるため

ぐらいが想像できます。

 このNazioniが何を指すのかを知るためには、現在のイタリア人に確認するだけでは不十分で、1922年当時、そして第二次大戦後、再びdelle Nazioniを冠するようになった1947年当時、Nazioniにどんな意味があったのか、あるいはどんな意味が込められていたのかを確認する必要があります。


 なお、私のサイト中では、Gran Premio delle Nazioniを「イタリアグランプリ(イタリアGP)」と表記しています。「ネイションズグランプリ」としてしまうと、「F.I.Mの名の下、ヨーロッパを代表するグランプリ」のようなものかと思われてしまいますので。
 

「的を得る」は誤用ではないーイタリアGPの名称

 詳しくはこちら。
11.「的を得る」は「的を射る」の誤用ではない? 底無しの「日本語沼」の話 - 間違えやすい日本語表現(澤田慎梧) - カクヨム (kakuyomu.jp)

 他にも詳しく解説されている方がおられます。

 「ガールズ&パンツァー」のパンツァー=panzer はドイツ語で「装甲」、「戦車」ですが、ドイツ人にとってpanzerといえば戦車をまず思い浮かべるそうです。
 では、第二次世界大戦中はどうだったのでしょうか? ドイツの宣伝映画をyoutubeで見ることができますが、ナレーターが「panzer!」と叫んだ後に戦車が登場するシーンがあったりするので、第二次世界大戦中でもpanzerの一義的な意味は戦車だったようです。

 さて、かつて、イタリアグランプリの正式名称は

Gran Premio delle Nazioni
でした。nazioniはnazioneの複数形です。

 そのまま英語に訳すと
Grand Prix of Nations
になります。MOTO GPの公式サイトでも、かつてのイタリアGPをこのように表記していますし、これに倣ってか、日本の雑誌等でもかつてのイタリアGPをネイションズGPと表記するようになりました。

 問題はnazioniが何を指すかです。辞書では
国家(複数形なので諸国とした方がいいかな)
国民
が主な意味です。
  
   イタリアでGPが初めて開催されたのは1914年で、その時、そして第1次世界大戦を挟んで1921年は Gran Premio d'Italie でした。そして1922からGran Premio delle Nazioniになりました。

 その2年前に国際連盟が成立しましたが、国際連盟はイタリア語では
Società delle Nazioniです。このNazioniはイタリア、イギリス・・・等の諸国です。

 では、Gran Premio delle Nazioni のNazioniも同じ「諸国」なのでしょうか。

 

タンデム2気筒

 前回(リンク)カワサキKR250/350の前にMZが125㏄クラスでクランク横置タンデム2気筒を走らせていたことを紹介しましたが、別にカワサキのタンデム2気筒が「世界初ではない」からどうだと言う意図はありません。

 1963-65年にスズキは250㏄クラスでスクエア4気筒を走らせていましたが、これを縦に半分にすればタンデム2気筒になります。
 そもそも、ロータリーディスクバルブ2気筒でエンジン幅を極小にしようとすれば、必然的にタンデム2気筒かクランク2軸V型2気筒になってしまうのです。

 タンデム2気筒というレイアウト自体、誰でも思いつきそうなものです。しかし、レーシングマシンは形だけの品評会に出展するためのものではありません。大事なの
は、タンデム2気筒エンジンの振動を抑え、長いエンジン長のために車体の軸距が長くなりがちなマシンをレーシングマシンとして成功させることなのです。

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