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JFRMCブログ

レーシングマシンについての記事は「その他」にもあります。

カーグラフィック誌の記事(2)

こちらで取り上げたカーグラフィック誌での宮川秀之氏の回想ですが、今月号もひどいですね。

1980年のGP500最終戦西ドイツGPでコースの安全性を懸念するスズキのルッキネリとロッシについて「とにかくスタートして2周し、後の判断は2人にまかせる。安全運転でいけ。」というような指示を2人に与えるよう現地のスタッフに伝えたこと、そして「レースを放棄するどころか、二人ともしっかり走り、ルッキネリはケニー(ヤマハ)にぴったり食いついて走り2位入賞」とのこと。
 
 
 ケニー・ロバーツが優勝してルッキネリが2位みたいですが、実はルッキネリが初優勝でロバーツは4位です。そしてロッシは完走せず1周を終えたところでリタイアしています。

 1980年の西ドイツGPが行われたニュルブルクリンクの北コースが1980年まで22.835kmで1981年から22.832kmとなったとのこと。
 22.832kmは20.832kmの間違いだと思います

 1981年、スズキRGΓ500は第4戦フランスGPで登場、それまではRGB500で走ったとのこと。
 RGΓ500は第1戦に登場しています。

 1981年のポイントは1位ルッキネリ105点、2位マモラ95点、3位ロバーツ74点とのこと。
 マモラは94点です

 こんなにいい加減な記事ばかりですと、どこまで信用していいのかわからない、というか「ほとんど信用できない」レベルだと思います。こんな記事が四輪誌で連載される意味が理解できません・・・ということはありません。雑誌はこんなものです。




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ルイジ・タベリの記事

ルイジ・タベリといえば1960年代、ホンダ等のライダーとして活躍したスイス人ですね。私は1996年のスズカ・ヒストリックミーティングで間近に見ることができました。

 今月号の「風まかせ」にそのタベリの記事があります。細かいことはともかく、一つだけ指摘させていただきます。

 「(1965年について)なお、(50cc)日本GPでの優勝は1963年に続いて2度目となり、タベリの日本での知名度は一気に広まった。余談になるが、その一方で、故郷スイスではWGP開催がこのシーズンから突然中止になってしまっていた。その訳はこの年、フランスでの4輪レースでモータースポーツ史上最悪の重大事故が発生、ドライバー、スタッフ、そして観客合わせて80人以上が死亡するという大惨事が起こったためだ。」

 
  二輪のスイスGPが開催されたのは1954年までです。そしてフランスで80人以上が死亡したレースといえば1955年のルマンです。このあまりにも有名な事故を1965年に起きたとする「創造力」豊かな記事を見るのは初めてです。

RACERS Volume 23

ちょっと遅くなりましたが・・・

今回は1990-91YZR500特集です。この頃のGPはGP500の黄金時代だと思いますが、その様子がよく捉えられていると思います。細かいところで気になる記述がないことはないのですが、あえてここで触れるほどのことはないでしょう。

 ところで、今回、掲載された現存する1990年型YZR500はヤマハが保有するそうですが、日本国内に限っても、他にもあります。http://www.geocities.jp/noda_keni/y/yzr50090/90yzr500.htm 見る人が見れば、どこで撮影したかは一目瞭然だと思います。

風まかせ No40

タイトルの雑誌に、ビル・アイビーの記事があります。
例によって間違いが多いですね。購入しなかったので、記憶を頼りに書くと、

「1967年第3戦フランスGP250㏄」という写真説明は「1967年第4戦マン島TT250㏄」の誤り。
  
 アイビーについて「小さな巨人」、「ジャイアントキラー」と呼ばれたとあるが、初耳。高井幾次郎の「リトルジャイアント」と勘違いしているのでは。

 1966年のスズキ125㏄マシンをRT66-Ⅱとしているが、RT67-Ⅱ(スチュアート・グレアム用)、RT67-Ⅲ(片山義美用)の誤り。
 

 1967年125㏄のスズキチームにアンシャイトがいたようになっているが誤り。アンシャイトは50㏄のみの契約で、125㏄クラスは前年から貸与されているRT66を使用し、個人出場でドイツGP、イタリアGPのみに出場した。

 1968年の250㏄クラスとチャンピオン決定方法は「二者が1、2位に入賞したレースのレースタイムの合計で決定」ではなく、「二者が同時に入賞したレースのレースタイムの合計」の誤り。1968年250㏄、1972年50㏄クラス、いずれも結果的に「二者が1、2位に入賞したレース~」になっただけ。1953年125㏄のメーカータイトルは、二社が1-3位に入賞したレースのレースタイムもカウントされている。

 
 気筒数制限等が行われたのは、125㏄、250㏄については1969年ではなく1970年から、350㏄、500㏄については1974年から。

アイビーが亡くなったのは、「1969年東ドイツGP350㏄レース当日のプラクティスでの事故によるもので、7月13日」ではなく、「1969年東ドイツGPレース前日のプラクティスで7月12日」の誤り。

 ほかにもおかしな記事があったように思いますが、よく覚えていません。

 






漫画家の記事(3)

バイカーズステーション誌に限らず毎月購入しているバイク雑誌はありません。気になる記事があるときだけ購入するだけです。バイカーズステーション2013-3号も購入していました。

で、えのあきら氏の記事ですが、1963年のモト・モリーニ250㏄単気筒レーサーが取り上げられています。

「もしフランスGPが中止にならなかったら...もし最終戦がヨーロッパから遠く離れた地で初開催された日本GPでなければ、タイトルはモト・モリーニの手中になった可能性が大きかったと思います」

 1963年の250㏄クラスは全11戦の予定でしたが、フランスGP250㏄クラスは250㏄直前の雷雨で中止され、全10戦になりました。
 
 えの氏が「フランスGPが中止にならなかったら」と書いているのは、フランスGPのコース(クレルモンフェラン)がコ-ナーが多く、モリーニに優利と考えたからなのでしょう。しかし、モリーニが4勝したコースのうち、ホッケンハイム(ドイツ)、モンツァ(イタリア)は高速コースとして知られており、低速コース=モリーニ優位というわけではありません。

 実はフランスGP中止云々より大事なことは、「モリーニは1963年のマン島、東ドイツの2戦を欠場しており、このことがタイトル争いに大きく影響した」ことです。
 欠場の理由は、資金的な問題とも旅券の問題ともいわれています。

 えの氏はこのことを知らなかったものと思われます。


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